旅は道連れ世は情け─1.容疑者K - 3/3

「かおる?」

「──え、あ、ああうん、ちょっとぼうっとしてた……」

たまたま車に積んでいたなけなしのタオルで体を拭き、薫はエンジンをかけて夜を走る。

奏汰は助手席の座席を倒してだるそうに窓の外を眺めていた。体力が削られていくからと着替えを要求するなど、学生時代では考えられなかったことだ。

「……」

ガラスに貼りついた水滴が風に煽られて後方へ逃げていく。

「……心配したんだよ。あんまりにも音沙汰がないからさ……俺だけじゃなくて、みんな、いろんな人が」

それぞれの道を行こうと互いを信じてお別れした日から六年が経った。

信頼していたからこそ後を追わなかった。会いたくなったら会いに行けばいいのだからと、奏汰もそう考えているはずだと自分に言い聞かせ、めっきり会わないまま六年が過ぎた。

多くの人がそうするように薫もまた何台も携帯電話を買い換え、何度も電話帳を移した。奏汰と会わないあいだずっと、あの魚の絵文字はずっと名前の後ろを泳いでいたのだ。

「……ちあきには、あいましたよ。いっかいだけ」

やくそく、しましたから。と奏汰は窓から見える月を目で追いながら呟いた。薫はその目線の動きをちらりと眺め、妙な居心地の悪さを覚えながらハンドルを切る。

ああそう、なんだか拍子抜けしちゃったな、とカーブを曲がる。

「答えなくなかったら答えなくていいんだけど……六年間、なにしてたの?」

「『かみさま』のころしかたを、かんがえてました」

「もう、そういうことじゃなくってさ」

「いい『ばしょ』ですよね。あの『はまべ』も。『おもいで』があるから」

「思い出? ……俺とあそこで天体観測したこと? 若気の至りっぽくてけっこう恥ずかしいエピソードなんだけど」

「はずかしくっても、いいじゃないですか。すごく『きれい』な『おもいで』だから……。ぼくにとっても、かおるにとっても」

そりゃそうだけどさ。

車は薫の自宅へと引き返していた。着いたらすぐに奏汰を風呂に入れて着替えを与えなければならない。それから客用布団を出して、とこの後の工程を組み立てている最中、ふと気がついた。

「(あれ、そういえば、奏汰くんって熱いお湯苦手じゃなかったっけ)」

だめだなあ。色々、忘れてしまっている。

薫は前髪を掻き上げて息を静かに吐いた。

「……本当に殺してないんだよね?」

「もう、そればっかりですね。ほんとうですってば。ころしてないです」

「じゃあどうしてあんな切羽詰まった電話かけてきたの」

「『せっぱつまって』いたのはかおるもでしょう? ずいぶんあわてちゃって。……いいえ、ぼくが『ぜんめんてき』にわるかったですね。ごめんなさい」
「だから、謝らないでいいってば……。ああ、なんだか調子狂っちゃうなあ」

会話の意味のわからなさ、不毛さ、とりとめのなさが心地よい。この感覚はずいぶん久しぶりだった。不明瞭で不鮮明で、会話になっているのかも怪しい。

「……ねえ、『したい』って、なんのことだとおもいました?」

「そのまんまだと思ったよ。そのまま……。『埋める』なんて言うしさ」

「ああ、やっぱり。すみません、ほんとうに、『おおげさ』にいっちゃっただけなんですよ。さみしくって」

奏汰は眉尻を下げて困り笑顔で言った。またその顔だ。隠し事をされているということは、自分が隠し事を強いているのと同義だ。そんな息が詰まるようなことを薫はやりたくなかった。

「嘘、つかないでよ。俺、気付いてるよ。海入ったんでしょ。潮の匂いがする」

「あはは……。ばれちゃいました?」

「……ばれるもなにも、ないよ」

信号が黄色から赤に変わった。車をゆっくり減速させ、停止線の前で止まる。

薫が潮の匂いに気付かないわけがないのだ。濡れていたのは雨に打たれたからではなく海に入ったからだ。その証拠に、乾きかけた服の端がパリパリと潮の粉を吹いている。

「わかるよ、それくらい……」

「……ごめんなさい」

「……殺してない、んだよね」

──殺せなかったの?

信号が青になり、薫は奏汰からさっと目を逸らして車を発進させた。言いそうになった台詞を飲み込み、代わりに「家に着いたら服洗おうね」と当たり障りのない言い回しでその場を濁した。そういえば、傘を一本あの砂浜に忘れて来てしまっている。奏汰に手渡そうと思って持ってきていた分だ。

「(でも、まあ、いいか……傘くらい。たいしたものじゃないし……)」

「……かおる」

「なに?」

「すきですよ」

「俺もだよ」

「……おぼえてないんですか?」

「……なにを?」

奏汰の視線が薫へ向けられる。またその目だ。渇いていて、今にもひび割れそうな、底が抜けたような青緑色。

 

***

 

「(まあ……そんな気はしてたよね)」

薫が目を覚ましたときに奏汰はもういなかった。洗濯機の中には生乾きの奏汰の服が残されている。薫が貸した服のまま出ていったのだろう。

ひとまずそれらを洗濯カゴに移し、ベランダへ一枚ずつ干していく。いつもならそうは思わないのだが、奏汰の服が自分のものと一緒に干されているのは妙な心地がした。朝日が眩しい。

テーブルに置かれた白い紙が日光を反射している。──書き置きだ。

『おじゃましました。あさになったので、かえります。かおる、ありがとうございました。かなた』

丸っこい平仮名の筆跡は昔と変わっていない。テストも部活の書類もサインも、ぜんぶこの丸い文字だった。漢字が書けないのか、それともあえて使わないのかは定かではない。

「(無事に帰れたんならいいけどね……。心配させるだけ心配させちゃって。奏汰くんらしいと言えばらしいんだけど)」

文字数のわりにやけに紙が大きい。つるつるしていて、上端には破かれた跡がある。ひっくり返すと裏面──そもそもこちらが表面だが──は八月のカレンダーだった。壁に吊るしたカレンダーは九月になっている。メモにできそうな紙がないか探した結果、一足早いがカレンダーを破いて使うことにしたのだろう。

「……あ」

思い出した。今日は八月三十一日。奏汰が電話をかけてきたのは日付が変わってすぐ。つまり、八月三十日。

「誕生日だ」

──あの夏。青色、砂浜、水平線。

海の見える公園、天体観測、思い出、誕生日、潮の匂い。

「……死体って、まさか」

薫はスマートホンを手に取り、電話帳から魚の絵文字を探す。画面がバキバキに割れていて見辛い。ゆうべ落としたせいだ。

「(お願い、電話に出て)」

よりにもよって誕生日を忘れるなんて。腑抜けだと叱咤するあの後輩が脳裏に浮かぶ。

呼び出し音。昨日は出てくれなかった。今日も出てくれないかもしれない。

怒らせてしまった。傷つけてしまった。『綺麗なものでいっぱいにしよう』と宣言したのに。

ふいに呼び出し音がぶつりと切れた。

「奏汰くん!!」

『もしもし』

「もしもし、あっ、ええっと!  誕生日、おめでとう──! 忘れてて、ごめん!!」

勢いに任せて電話口で叫んだ。途中で声はひっくり返り、焦りすぎている自分に顔がかあっと熱を持つ。

「(思い出した。六年前の奏汰くんの誕生日、俺は──)」

「『かおる』、」

玄関のドアががちゃりと開いた。声は電話と玄関と両方から聞こえていた。振り返ると、スマホを耳に当てた奏汰が立っていた。

「……ただいま」

「おかえり」

自然と目が潤みだす。俺たちに難しい言葉や長ったらしい台詞なんて必要ない。短い挨拶を交わすだけでよかったのだ。

薫は奏汰を強く抱き締める。触って柔らかさがあるわけでも甘い香りがするわけでもないが、もう一分一秒も無駄にしたくなかった。ごつごつした男の骨格だ。生きている硬さだ。

「……俺、もう一回だけ、奏汰くんとデートがしたい」

奏汰の口角がわずかに緩む。『ろまんす』の予感にうっかり照れた奏汰の顔を、薫は見ることができない。

「『でえと』のおさそいですか?」

照れているのがバレないように奏汰は無表情を装うとするが、嬉しさが声色に溢れ出てしまう。

本当は、奏汰はもう帰るつもりだったのだ。書き置きを残していたのがその証拠で、もう二度と会わないつもりだった。だがなんとなく道を引き返してしまって──ベランダに、自分の服と薫の服が並んで干されているのを見て、迂闊にも喜んでしまった。うふふ、と吐息混じりに笑い、奏汰は薫の背に腕を伸ばす。

「そうだよ。デートだよ。今度はちゃんと、デートのつもりで誘ってるからね」

「……うれしいです。つれてってください。『きれいなばしょ』。『おもいで』のばしょ」

それならいっそ旅に出ようか、と薫は呟く。

「奏汰くん、一年かけて俺とデートしてよ」

「いいですよ。ぼくも、そうしたかったとこなんです」

ふいに蝉が鳴き出し、二人は我に帰る。まるで話がまとまるのを待っていたかのようなタイミングだ。今日は暑くなるだろう。夏はまだ終わりそうにない。

 
 
 


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