旅は道連れ世は情け─1.容疑者K - 2/3

八月の終わり。その日は一日中妙な天気だった。

「あれ、こっちでもまた虹だ」

車窓に映る風景には大きな虹が架かっている。移動前、ロケ現場で見たものよりもずっと大きく色の差がはっきりしていた。綺麗だねえ、と薫はのんびりした声で話す。

「我輩、じめじめしてて少々憂鬱なのじゃが。虹のおかげで気分も晴れるというもの……♪」

「さっきのは消えていくところ見たし、別のやつだよねぇ」

「ふむ、吉兆じゃの」

着きましたよ、とマネージャーが車を停めた。二本目の虹の縁起の良さに掛けて「収録がうまくいきますように」などとお祈りしてみたりなんかして、順調に、それもだいぶ気持ち良く仕事へ望めたと思う。百点満点、とまではいかない九十点代だが、成長に活かすための失点だ。

零やスタッフたちと次回の打ち合わせも含めた夕食を摂り、帰るころには夜十時を回っていた。

「雨だ」

傘がない。店に入ったときには雨は降っていなかった。

今日は車移動が中心だったことに加え、降ってはすぐ止みしばらくしてまた振り、といった天気だったため、傘を買うタイミングが掴めなかったのだ。貸しましょうか、とスタッフのひとりに声をかけられたが、「いいよ、小雨だし。たぶんまたすぐ止むだろうから」と断った。

 

***

 

ぬるい小雨が振り続ける夜だ。スマホのバイブレーションにうなされ、薫は鬱陶しそうに体を捻る。

「(また酔っ払った朔間さんかな……)」

零はアルコールで機嫌がよくなるとしばしばいたずら電話をすることがあった。まるでライブパフォーマンスでもするかのような圧で喋ってくるのだからたまったものではない。たいていそこまで酒が回っているときは倒れる寸前で、薫が解放する羽目になるのだ。側に晃牙かアドニスがいるときはそれに限らないが。

今日はスタッフたちとの夕食後、零とは駅で別れたため飲み歩いている可能性は少なくない。

「……え?」

スマホに表示された名前を見て薫は目を丸くした。

名前の後ろには魚の絵文字。

電話帳に登録したときにノリで付け足して、当時からそのままになっていたのだろう。心臓がぎくりと跳ね上がった。

『もしもし、かおる?』

「奏汰くん……? え、なに、どうしたの。久しぶり〜……ってかんじじゃないよね?」

ええと、その、と奏汰は言い出しにくそうに口をもごもごさせる。昔よく聞いていた声色と比べてずっと青白く、血の気がさあっと引いた。薫の意識が覚醒するのに比例して動悸も強くなっていく。寝起きのせいもあるだろうが、嫌な予感、としか言いようがなかった。

『……やっぱり、なんでもないです。それじゃあ』

「ちょっとちょっと! 待ってよ、急に切らないでよ。なに、どうしたのこんな深夜に。電話なんかかけてきちゃってさ……なにかあったんでしょ」

『…………かおる』

「切らないで。いまどこ? 車出すよ、迎えに行くからそこにいて」

奏汰は細く声を絞り出して現在地を伝えた。ここから車で三十分ほどの、海が近い公園だ。夢ノ咲学院からもそう遠くない。

薫は財布や鍵といった最低限のものを引っ掴み、ドアを開ける。

「(──あ。あの公園って……)」

青色、砂浜、水平線。

上下まっぷたつに割れた視界の上半分には星空、下半分にはさざなみの立つ水面。

二人で一度だけデートまがいのことをした、名前のない星座に名前を付けて星を数え明かした夜の記憶。

「(そうだった、雨……)」

ドアを開けると夏特有の熱気がむわりと飛び出て来た。外はまだ小さな雨粒がさあさあと景色を包むように降り続いている。傘を差さなくても平気そうだが、ここから雨足が強まることもあるかもしれないと、薫は玄関脇の傘立てからビニール傘を二本抜き取った。

『あの、かおる』

「なに?」

車のキーを開け、トランクへ傘を二本とも放り込む。ばたん、と蓋を下ろした直後、電話口の奏汰はまるで痛みに耐えるかのように薫へ打ち明けた。

『「したい」があるんです。ぼくだけじゃ、うめれません。てつだって、くれますか……?』

手からスマホがするりと抜け落ちる。あ、と思ったときにはもう遅く、アスファルトの微細な尖りが画面を突き破った。急いで拾い上げて耳へ当てなおす。

「ああ、び、びっくりしたなあ〜。ごめん奏汰くん、スマホ落としちゃって……あれ? 聞こえてない?」

落とした衝撃のせいか通話は切れてしまっていた。すぐに掛け直すが呼び出し音がずっと鳴るだけで、痺れを切らした薫は通話を諦め車へ乗り込んだ。電話自体は繋がっているはずなのに、奏汰が電話に出てくれないのだ。

びきびきに割れたスマホの画面に、日付と時刻がぼんやり浮かび上がる。日付が変わったばかりの深夜、八月三十一日。車内は蒸し暑く、薫は冷房をかけた。

「も〜、なにこれ……。聞いてないよ……」

ハンドルに両肘を着いて頭を抱える。奏汰は明らかに様子がおかしかった。付き合いがある者なら誰にでもわかるだろう明白なSOS。通りすがりの他人でさえ気付けるだろう。多忙をいいことにお互いに干渉しなかった結果だ。

「……『したい』ってなんなの……。奏汰くん、」

奏汰くん、きみは、人を殺したの?

 

***

 

浜辺にびしょ濡れの青年が座り込んでいる。水色の髪は夜でも明るく目立ち、雨に濡れて艶々と光ってさえいた。

雨が上がって無駄骨になってしまった傘を二本持ち、薫は砂浜を踏み固めるように歩く。

最後にあの背中を見たのはいつだっただろう。六年前の夏? あるいは冬? あの日は今日と違い蝉が鳴いていた気がする。

とにかく、記憶にある背中と比べて痩せているのは確かだ。濡れて体に貼りついた服がそれをいっそう助長させる。

「奏汰くん」

「──ころしてないです」

奏汰は背を向けたまま即答した。足が止まり、水を吸った砂が枷のように靴底へ絡みつく。

薫はおそるおそる奏汰の肩へ手を伸ばした。ぬるい雨と風に打たれていたせいでそれは温度がなく、やけに現実感がない。

「奏汰くん、」

「──ぼくに『ひと』がころせるわけ、ないじゃないですか」

冷静ながらも焦りを孕んだ声色が、薫の接触を拒んだ。宙に浮いたままの薫の手を睨めつけるように奏汰はゆっくりと振り返る。久しぶりに見る青緑色の瞳は異様なほど鋭く尖り、全身びしょ濡れにも関わらずそこだけがひどく渇いていた。

喉の奥がきゅうと痛み、息が締まる。

「……そんなの、」

傘を握る手に思わず力が入った。

だがあの電話口での声に、嘘は感じられなかった。死体があると奏汰が言ったのだから、あるのだ。それが本当に死体ではなくとも、死体に近しいもの、ないし死体と呼べるもの──。

現にこの砂浜に死体らしき物質は見当たらない。公園脇の駐車場から歩いてくるあいだにも、それらしき人影ともすれ違わなかった。

「ごめんなさい、『めいわく』かけてしまって。なんでもないんです。ころしてないんです。ころせなかったんです。さっきの『でんわ』は、きかなかったことにしてください」

奏汰はぎこちなく笑い、砂浜から立ち上がる。砂と雨でドロドロになった顔を手の甲で拭い、薫から傘を一本受け取ろうとした。へらりと笑顔を取り繕われて──無性に、腹が立った。

「──できるわけないでしょ!」

ふいに風が止んだ。怒鳴ったってどうしようもないのだが──こんなに無理した笑顔を作らせていることが──自分に腹が立った。

「かおる、ちがうんです、かおる」

「聞かなかったことになんてできるわけないよ。わかるんだよ、奏汰くんが嘘ついてるって。聞きたくないし知りたくないけど、でも俺にどうにかしてほしかったから……俺と死体を埋めたかったから電話かけてきたんでしょ!? 埋めるよ、いくらでも埋める! 埋めれるわけないよね、殺してないなら!」

止んでいた風がぶり返した。薫の恫喝は止まらず、心許なさから奏汰のシャツを握っていたがいまやほとんど胸ぐらをつかんでいるに近い。奥で打ち寄せていた波も激しくなり、台風が近いのかもしれない。

「……かおる、いってることが『めちゃくちゃ』ですよ」

シャツを掴まれて顎を揺らされながら、奏汰はゆるやかに口角を持ち上げる。前髪や襟足から滴った水が首筋に這い、いっそう肌の青白さを強調していた。覗き込んだ瞳はいまだ渇いていて、薫はずるりと奏汰のシャツを手放す。

「…………俺は、それくらい、覚悟したんだよ」

風がぬるい。ここが常世だとは到底思えなかった。

奏汰の足元に、閉じたままの傘が二本転がっている。濡れて泥になった砂がナイロン地を汚していて、薫は俯いてそれらを見ることしかできなかった。

「……俺は、奏汰くんが……」

──奏汰くんが?

自分が何を絞り出そうとしたのかがわからない。喉の奥の痛みを探ってみるが何も見つからなかった。じんじんとした腫れぼったい熱がどんどん広がっていく。

「かおる、ちがうんです。ちがうんです……。ごめんなさい。ころしてないんです」

奏汰は足を屈め、傘を一本拾い上げた。泥を払い、これが目印の墓標だとでも言うかのように、さくり、と浜へ突き刺した。

「『したい』は……『ひと』じゃなくて、『かみさま』です」

薫は声につられて顔を上げる。濁った雲間から月光が指し、濡れた水色の髪が透き通っていた。銀色の光が奏汰の輪郭を縁取る。水を吸った服が薄ぼんやりと反射していた。

「……かみさま」

「──っていったら、かおるはしんじますか?」

奏汰は眉尻を下げ、口角を少しだけ引き上げて笑った。

それは人殺しの笑顔と言うよりも、神を殺した者の笑顔、神の死に顔を見た者の、どこか満足そうな笑顔だった。

 

***

 

──珍しくもなんともないですよ、かみさまが殺されるのなんて。

ずうっと昔から、かみさまは世界のあちこちで殺されてきました。

かみさまは死にません。殺されるだけです。

殺されて、ようやく終わる。

終わらせたければ殺すしかない。

ぼくは終わらせたいんです。

かみさまを。

こどもを。

青春を。

ぼくを。

だから何度も殺すんです。何度も何度も。

あの夏、あの八月の終わり、蝉は鳴いていましたか?

かおるなら覚えてるでしょう?

ねえ、ぼくの言ってること、わかりますか。

……かおる?

 

***