「(やっぱり声かけなきゃよかった……)」
服うちで洗っていかない? と軽々しく口走ったことを激しく後悔した。いくら同性同士とはいえ、見知らぬ血まみれの男を自宅に上げるなんて自殺行為ではないのか? 血まみれで路上に転がってたなんて絶対ワケアリだし、なにより胸に文字通りの風穴があいている。人間かどうかすらも怪しい。
「(ほんとに吸血鬼だったらどうする? エクソシストじゃないから退治できないし)」
「なあ、あの子はどうするんだ?」
悶々とまさかの事態を危惧していたところ、男は俺の背後を指して言った。
「ずっと後ろをついてきてるぞ」
「え、きみさっきのトコからずっとついてきてたの?」
先ほど遭遇した子猫だった。足元についた血が時間経過でどす黒くなりつつあり、幼い顔と子猫らしい細い胴体だけが暗闇に浮かんでいる。尻尾はゴキゲンな気持ちを示すようにピンとまっすぐ上を向き、上目遣いでこちらに訴えかけてくる。
「そんな目ェしてもだめ。いま動物を飼う予定はないんだよね」
「よぉしよしよし、いい子だなぁ……☆」
「ちょ、ちょっと! なにしてんの?」
男は俺の発言を無視して子猫を抱き上げ、猫のほうも無抵抗で抱き上げられた。バンザイの状態に広がった手足はやはり血まみれで、猫自身の血ではないとわかっていてもあまり気分のいいものじゃない。
「ねえ、いまの聞いてた? 俺は猫なんて──……」
「さっきのトコからずいぶん歩いたんだぞ? 疲れただろ、休みたいよな。……ほら、この子もこう言ってるじゃないか!」
男は子猫の腕を掴みパペットのように操りながら言う。
「お風呂にも入りたいし、おなかも減ったし……それなのに無視するなんて、お前は血も涙もないのか!」
「あるよ……血も涙も」
どちらかというと血が足りてるか心配なのはお前のほうだ。あれだけ出血しておいてそのテンションはなんだ。
「よし、こうしよう。俺が面倒を見て里親を探す。お前は風呂を貸してくれるだけでいい」
「そのノリ疲れるんだけど……もう好きにしてよ……俺は疲れた」
「そうか! よかったなぁっ、今日からお前はうちの子だ……☆」
語尾に星が浮いているのがたまらなく鬱陶しい。それは素でやっているのか?
(こんなに元気なら、俺が声かけなくてもよかったじゃん)
スーパーからの帰り道がこんなに長く感じられたのは始めてだ。なんというか、疲弊していた。男は腕に猫を抱きかかえる。いいなあ、俺もスーパーの袋なんかじゃなくて、子猫に癒されたい。
“にゃーん”
「? ああ! なんなら交換しよう」
鳴き声からなにかを読み取り、男は俺に子猫を差し出した。
「抱っこしたいんだろう? そっちは重いだろうから俺が持つぞ」
「え……あ、なに勝手に」
「触りたそうな顔をしていたからな! 汚れてはいるが、洗えばきっと綺麗になるぞ」
「……」
男は子猫と俺のレジ袋とを交換した。ここで男が走り出せば置き引きが成立する。が、走り出すような気配はない。むしろ、男は機嫌をよくしたのかスキップしだした。
「はっはっはっ! なんだか楽しくなってきたなぁ、早く帰って風呂にしよう! 家はどっちだ?」
「……正面。三階の端っこ」
「おおっ、気づかなかったぞ!」
男の暑苦しいテンションにだらだらと付き合いながら歩くうち、アパートのすぐそこまで来ていた。まだ五月半ばだというのに、疲労も相まってうっすら汗をかいている。確かに風呂には早く入りたい。
子猫は腕の中でウトウトと舟を漕ぎ出している。コンクリート打ちっ放しの階段をのぼり、子猫を起こさないようにしながら腰のポケットから鍵を取り出した。
「はかぜ、と読むのか」
男はドア前のネームプレートを読み上げる。
「うん、合ってるよ。羽風薫」
「俺は守沢千秋」
「千秋くん、ね」
ドアを開け、壁づたいに電気のスイッチを入れた。もぞもぞと靴を脱ぎながら、千秋は楽しげな口調で尋ねる。
「猫はかわいいよなぁ。その子もかわいいだろう?」
「……まあ、ね」
ほらみろ、と言わんばかりに上下の歯を見せて笑った。
「(まあ、悪くはないよね……)」