午前10時のユウレイクラゲ─07.この世にたった一人だけ

 ──記憶があるのは幸せなことだろうか。記憶があるから生きられるのだろうか。

 無機質な灰色の天井。空調から吹く風にかすかに揺れるカーテン。悠仁は高専の医務室で目を覚ました。そっと両瞼が開けられ、ベッド脇に座っていた七海と目が合う。

「起きましたか虎杖くん。おはようございます」

「……ナナミン」

 悠仁は身を起こそうとするが、体を支配する鈍痛に顔をしかめた。起き上がるのを諦め、七海のほうへ寝返りを打つ。

 七海はパイプ椅子に腰かけ、術後からずっと悠仁に付き添っていた。邪魔になるからといつものネクタイと眼鏡は外し、ジャケットも後ろの壁にかけてある。七海は悠仁の意識が覚醒するのを待ち、簡潔に状況を伝えた。

「家入さんに治療してもらいましたから、傷は塞がっているはずです。まだ痛みがあるだろうから安静に、とのこと」

 悠仁はまじまじと七海の素顔を観察する。七海の日本人離れした色の瞳が珍しいのか、それとも真相心理を読み取ろうとしているのかは定かではない。素顔を晒すこと事態たいした話ではないが、こうもじっくり眺められるのはある意味で新鮮だ。

「……ナナミン、ずっとついててくれたの?」

 悠仁は視線を七海の瞳へ固定する。毛布をたぐりよせるような、弱々しく幼い声色。七海は無言を貫き通すことで、肯定を表現する。

「……ありがと」

「……いえ。子供を守るのは大人の義務ですから」

 ──逃走した真人を追おうとした矢先、悠仁は気を失い倒れた。 原因は大量の失血と呪力不足によるもの。直前に猪野へ指示を出していたこともあり、七海は悠仁の保護を優先して追跡を断念した。伊地知含む『窓』らに報告し、校内に散らばる被害者たちの遺体の回収や事後処理を任せ、二人は一度高専へ撤退した。

 悠仁はすぐさま治療を受け、そこからいまに至るまで眠り続けていた。体の何ヵ所にも穴があいていたが、綺麗に貫通していたおかげで後遺症等の心配もなく完治するだろう。被害者らの遺体は、敷地内の安置所に集められている。

「具合はどうですか」

「だるいかんじするけど、寝てれば治りそう」

 ならば安静に、と七海は返す。治療の際、念のため悠仁には軽い麻酔がかけられた。気を失っているとはえ、術中の痛みで覚醒され暴れられるのは非常に厄介だからだ。まだその効果が残っているのか、悠仁はぼんやりと天井を見上げている。布団から両手を出し、顔の前へ掲げたそれを握って広げ、問題なく動くことを確かめた。

「虎杖くん」

「なに?」

「……少し、うなされていましたよ」

「…………」

 悠仁は翳した手をじっと見つめている。鈍痛と倦怠感があるのかかすかに震えていて、悠仁は口角をひきつらせ、無理矢理声を上向きにして言った。

「夢を見たんだよ」

 パイプ椅子が軋む。七海はやや前屈みになり、悠仁を覗き込んだ。──面倒を見てやってくれと五条から依頼されたときには、どこにでもいる明るい少年としか思わなかった。が、こうして年相応に落ち込んでいる様子を見てしまえば、多少なりとも情が湧く。それらを無視できるほど七海は冷徹ではない。虎杖悠仁はまだ十五の幼い子供なのだ。悠仁の口もとは笑っているが、眉間には淡くシワが寄せられてる。

「順平の夢だった」

 悠仁は手を下ろし、目元を隠すように被せた。動作ひとつひとつがあまりに痛ましく、つい目を逸らしそうになる。代わりに七海は細く息を吐き、両目でしっかりと悠仁を捉えた。

 ──無理もないだろう。ただの調査対象とはいえ、同じ年頃の相手が犠牲になるのは相当ショックなことのはず。ましてや十代半ば、ただでさえ多感な時期だ、想像以上に深い傷になっていてもおかしくはない。

「……ッ、う、……──っ」

 手で目元が覆われているため全貌は見えないが、悠仁が声を圧し殺しながら泣いていることはありありとわかった。剥き出しのままの口が苦しそうに歪んでいる。七海は目を細め、無言でその様子を見守った。

 ──吉野順平という少年について、七海が知っているのは身辺調査データにあったことだけだ。これまでどんなエピソードを生きてきたのか、なにを大事にしていてなにが好きなのかなど、パーソナルな部分はなにひとつ知らない。呪術師として多くの人と関わる以上、出会うすべての人へ等しく関心を寄せるのは得策ではないからだ。知れば知るだけ、失ったときの代償も大きい。

 口調から察するに、悠仁は任務中に吉野順平となにかしらの関係を築いたのかもしれなかった。ましてや、任務をこなすの自体ほとんど初めてなのだ。関わり合いの程度は学んで慣れていくしかない。

 七海は悠仁のすすり泣きが収まるのを待ち、息づかいが平常に戻ったのを確認してから切り出した。

「虎杖くんには明日、事情聴取を受けてもらいます。つらいでしょうが、協力してください。今日はゆっくり休むことに尽力すること。……ですが、いまのうちに訊いておきたいことがひとつあります」

「……なに?」

「現場には、あの呪霊ツギハギの残穢がかなり色濃く残されていました。今後はあの痕跡をベースに追跡調査を行います」

 ああ、と悠仁は溜め息を吐く。逃げられたんだ、と悔しそうに呟いた。七海は慎重に言葉を選びながら続ける。

「が、それとは別にもうひとつ。薄くではありますが、ツギハギとは異なる、何者かの残穢も残っていました。それは──吉野順平・・・・のものですか」

 ──里桜高校からは二種類の残穢が検知された。真人ツギハギのものが濃く残っていたため発見に遅れたが、それとは種類の違う、何者かが術式を使った痕跡が確かに残されていた。気配に気付きはしたが、七海は直接合間見えていないため誰のものかまでは知ることができない。しかし、状況から鑑みて呪力の主を予想することは可能だ。

「残穢が彼のものであるなら、こちらも合わせて分析をする必要があります。そもそもが、彼とツギハギとの関係を調べる任務でしたしね。……虎杖くん」

 呼び掛けられ、悠仁は顔を覆っていた手をそっと外した。目元は赤く腫れ、わずかな充血が見てとれる。悠仁は鼻をすすりあげ、口内の唾液を一度飲み込んでから静かに答えた。

「──順平のだよ」

 悠仁の声が室内の空気を震わせる。声変わりは終わっているとはいえ、まだ細く危なっかしい、少年の声。それは孤独のかたちをしていた。中身は七海には到底窺い知れないものだが、似たような感覚に触れたことは何度も在った。幼いが故の無力さが、昔の自分の姿と被る。

「あれは、順平の残穢だった」

 悠仁は静かに、自身に宛がわれた痛みを飲み込みながら言った。

 

  ***

 

『人生はさよならばかりですが、別れによって得られるものもあるでしょう』

 

『虎杖くん、きみには生きてもらわないと困ります』

 

『残されたものがなんなのか、なんのために残されたのか。──それを、ゆめゆめ忘れぬように』

 

 聴取と報告書の作成を終えたときに、七海にそう告げられた。生きてもらわないと困る、という文言の大部分は、器としてそう易々と死ぬなというニュアンスで占められている。だがそれ以外に、個人として生きて成すべきことを成せ、という七海の指針が反映されているように感じた。

 十月の涼しい風があたりに吹き抜ける。夏のあいだは長袖の制服を少し暑く感じたが、そうこう言っているうちに丁度いい季節になってしまった。木々は緑色を失い、もういくつか葉を落とし始めている。空気も乾燥していて、あんなに長かった夏は嘘みたいに跡形もなくなっていた。

「(──あ、)」

 街路樹の根本に、薄茶色の塊が貼り付いているのが見えた。悠仁は思わず足を止め、その場にしゃがみこむ。からからに乾いていて、中身のない空っぽの──蝉の脱け殻だ。

 風雨に曝されたせいか多少埃っぽくくすんでいるが、この時期まで残っているのは珍しい。夏ならまだしも、こういうものは知らないうちにいつのまにか剥がれ落ちて土に還ってしまうものだ。悠仁はほとんど無意識にそれへ手を伸ばすが、なんとなく思い止まり手を下ろす。

「なに見てんのよ虎杖」

「あ、えっと」

 後ろから野薔薇が声をかける。悠仁の手元と根に張り付いたものとを見比べ、げんなりした様子で舌を小さく出した。

「うげ、それ蝉の脱け殻? 集めでもしてんの?」

「そういうわけじゃねえけど」

「なら行くわよ。道草食ってる場合じゃないんだから」

 わかってるって、と悠仁は立ち上がり、先を急かす野薔薇へついて行く。恵は道の先、曲がり角の手前に立っていて、どうやら二人が追いくるのを待っているらしい。悪い悪い、と悠仁はいつもの調子で軽く謝り、恵と合流した。

「聞いてよ伏黒、コイツ蝉の脱け殻見てて遅れたのよ。小学生かよって」

「いーだろ別にちょっとくらい見てたってさあ」

「よそ見厳禁でしょうが。任務中ってこと忘れてんの?」

「覚えてるって!」

 ぎゃあぎゃあと喧しく噛みつく野薔薇に、悠仁はつい応戦してしまう。恵はそれを無言で見守り、掛け合いが一息ついたタイミングで「行くぞ」と呼びかけた。冷や水を打たれたように二人ははっと我に返り、並木道を再び進みだす。

「いやさ、十月まで残ってんの珍しいなーって思って」

「ふーん。で?

で? …………で。生きるのってなんなんだろうなーって」

「え?」

 悠仁の唐突な言い回しに、野薔薇はきょとんと目を見開く。怪訝そうに眉を寄せ、じろじろと悠仁の頭の先から爪先までを眺め観察した。とくに変わったところは見つけられなかったのか、そのせいでより眉の皺が深まる。

「……虎杖、アンタ」

「……ハイ」

「一回死んで頭打った?」

 野薔薇の指摘をあながち間違いだとも言い切れず、悠仁はたじろぎながら恵にSOSのサインを出した。三人でいるときはいつもこうだ。混乱してうまく言葉にできないとき、悠仁は恵に助けを求めるのが癖になりつつあった。しかし、恵も毎回うまく代弁できるわけではない。今回もそうだったようで、恵は少し考えたあと、表情をほとんど変えずに返した。

「俺に聞くんじゃねえ」

「あっれえ!? 伏黒なら俺のこときっとわかると思ったのに!」

「買いかぶりすぎだ馬鹿。なんでもわかったらさすがに気色悪いだろ」

「でもわかってくれるときもあるじゃん!」

「そりゃわかるときはわかるんだよ」

 野薔薇は恵と悠仁の会話を横で聞きながら、不毛ね、と呟いた。

 並木道を抜け、赤信号に差し掛かり三人は足を止める。電車を降りてからここまで歩くこと数分。信号の先の角を曲がれば今回の現場だ。

「で、伏黒は生きるってなんだと思う」

「だから俺に聞くなって」

「そう? 俺より伏黒のほうがずっと頭イイからさ。わかると思ったんだけどな」

「アンタたちまだその話してんの? 脱け殻から随分話が飛んだわね」

「いま気になったからいま聞いてんの! ……釘崎はどう思う?」

「え、私に聞く?」

 悠仁はぱっと野薔薇へ振り向き質問を投げ掛けた。野薔薇は突然矛先を向けられたことに驚いた様子で、困ったように言い澱む。だが瞬時に下唇を指で押し上げたポーズに切り替わっていることから、それなりに真面目に考えてくれるらしい。そうね、と前置きして、野薔薇は答えた。

「覚えておくことかしら」

 信号が青に変わり三人は歩きだした。同時に、乾燥した追い風が背中側から吹いてくる。色を失くした枯れ葉が数枚、かさかさと前へ飛ばされていった。

「どう? なかなかイイセンいってるんじゃない? 伏黒、アンタは?」

「まあ、いいんじゃないか。覚えておくことのほうがずっと多いしな。忘れることよりも」

 野薔薇はしたり顔で恵と悠仁とを交互に見る。悠仁は二人の答えに感心し、半開きだった口を閉じて満足そうに笑った。

「うん、そっか。俺、幸せだなー」

「……アンタ、ほんといきなりどうしたのよ」

「なんでもないって。俺がいまそう思ったから、そう言っただけ」

「ねえ伏黒、コイツ前からこんなんだっけ」

「? 虎杖は虎杖だろ」

 横断歩道を渡りきる直前、悠仁は後ろを振り返る。青信号が点滅していて、それが赤色に戻る前に、悠仁は前を向き直した。両隣には仲間と呼べる同級生が二人いる。それは紛れもない事実で、この日々のこともまたいずれ、紛れもない幸福な記憶になるのだろう。

 記憶はずっと続いている。

 虎杖悠仁は、記憶を抱えて、生きていく。

 
 
 

 
 
 

うたかたのもしものきみの物語この空洞と明日も生きてく