午前10時のユウレイクラゲ─03.名無草、根無言、蛻の夏 - 2/2

 真人は壁に背を預けて座り、順平が帰った後も本を読んでいた。ページをめくる紙擦れの音だけが空気中に響いている。端正な横顔に被さる長い髪。その隙間から、濁った青色の瞳がこちらへ向けられた。

「覗き見は趣味が悪いよ」

 突き刺すような声色に、悠仁はびくりと体を縮込ませる。──バレた。柱にぴったりと両手両足をくっつけるが、今さら無駄なあがきかもしれない。足の指をぎゅっと踏ん張り、意を決して柱から身を現した。

「……見たくて見てたんじゃねえよ」

「そうかな。それにしては釘付けになってたでしょ」

 真人は本を閉じて床に置く。縫い目のある喉を曝し、なにもかもお見通しだと言わんばかりに気怠げに微笑んだ。

 

『一部分しか見てないのにわかった気にならないでよ。そんなの絶対間違える。僕は悠仁に、僕のことを間違えてほしくないんだ』

 

 ──校舎裏の椅子置き場。凍てついた順平の目線と口調が、悠仁を下へと突き落とす。どろどろに溶けた世界でできた沼。四肢に重い泥が絡み付き脱出は不可能で、体はあっという間に沈んで喉にも泥水が入り込んだ。

 

『まだ続きがあるんだよ。結論を出すにはまだ早い。悠仁、正しく理解して、正しく僕を覚えて。──僕のこと、全部見てよ』

 

 順平の声色は硬く冷えきっているのに、ガラスを一枚隔てたような不明瞭さがあった。いまにも泣き出しそうに震えた唇。呼び掛けようとしても喉奥の水がそれを拒み、悠仁はなすがままに生き埋めにされる。

 ──かたちにならない切れ端やカケラを全部ぐちゃぐちゃに混ぜたような、ありったけの断片で構成された世界から一転。

 悠仁は埃っぽくカビ臭い見知らぬ場所に立っていた。まただ。また飛ばされた。足元に茶色く濁った汚水が流れている。コンクリートの壁に囲われていて、ちかちか点滅する蛍光灯だけが内部を照らしている。どうやら地下にある下水道施設らしい。

 上方から階段を降りる足音が聞こえて、悠仁は咄嗟に身を隠す。柱の影から様子を伺うと、私服姿の順平が空中に向かって何者かと話していた。そっと身を乗り出し会話の相手を確認する。

 柱と柱の間に吊るされたハンモックに横たわる、長い鈍色の髪の男──あのツギハギ呪霊だ。名は真人だとか言っただろうか。すぐ下には本が山積みにされていて、二人はそれを話題に親しげに会話している。悠仁は出るに出られず、できるだけ音を立てないように息を潜めていた。

 気付かれたからにはもう隠れても無意味だと、悠仁は真人の前へ一歩踏み出す。真人は座ったまま、にやにやと悠仁を見上げて言った。

「盗み見とか盗み聞きとかさ。俺にわからないわけないじゃん。知ってるんだよ、ずっと見てたこと。よく目を逸らさないなって感心しちゃった。凄いね、順平が吐いてるとこもずっと見て──」

「見てねえよ」

「嘘だね」

 言葉は即座に打ち返され、空気がぴんと張り詰める。悠仁は口を一文字にして、しっかりと真人の両目を捉えた。拳は握り込め続けたせいで、内側に爪の痕が深く刻まれてしまっている。真人は余裕たっぷりに自分の髪を弄りだし、くるくると指先に巻き付けた。

「アンタは順平のことを全部見なきゃいけないんだ。そういう領域になってるんだから。だから見てるはずだよ、吐いてたところも、その直前の学校での出来事も」

 悠仁は言葉を返すことができず、押し黙るしかない。真人は下唇を軽く舐め、悠仁の微妙な表情の変化を感じ取って満足そうに笑った。

「で、見てどう思った? 可哀想だって思った? それともバカだなあって思った?」

「……オマエに言う義務あんのかよ」

「どうだろうね。俺だって別にそれが訊きたいわけじゃない」

「じゃあなんで」

「さあ?」

 真人は芝居がかった動作で立ち上がる。限界まで接近し、悠仁にしか聞き取れない音量で囁いた。

「ねえ宿儺の器。今日はきみだけなんだね。いまのアンタ、中身がなくて空っぽだ」

「──え?」 

 とん・・、と真人が悠仁の胸に指を一本突き立てる。以前、宿儺が風穴を開け、心臓を潰した場所。いつもならそこに宿儺が住み着いていて、やかましく悠仁の脳内で喋り散らしているはずだ。だのに校舎裏での顕現以降その声はぴたりと止み、呪力の気配すら感じられなかった。

「宿儺はどうしたのかな。もしかして分離しちゃった? そうだったら面白いな。空っぽの虎杖悠仁を好きなだけいたぶれるし──」

「……知らねえよ。ことわりがどうとか言ってた」

「へえ。理ね。あ、いいこと思いついた」

 真人の指が悠仁の体内にずぶずぶと埋まりかけた。悠仁は咄嗟に身を引いて後ろへ跳ぶ。こいつに触られるのはまずい。接触に失敗した人差し指を見て、真人はけたけたと笑い上げた。

「ああ、いいよそう逃げなくたって。いまの俺に、アンタをどうこうできるだけの呪力はないからさ。本来の現実のほうの俺とは切り離されちゃってるし、干渉できることも限られてる。いまのはただの挨拶みたいなものだよ」

「挨拶代わりに心臓とられちゃたまんねえよ」

「あれ、案外驚かないんだね? もっと慌ててくれなきゃつまんないよ」

「こっちはオマエのご機嫌とりしてる場合じゃないんだよ」

 はあ、と悠仁は頭を掻く。かつて自分に向けられていた暴力的な殺意はどこへやら、真人は飄々と悠仁をただおちょくっているだけだ。はあ、と深く息を吐き、吸い直して体の緊張と警戒を解いた。すっと背筋を伸ばし、悠仁は真人へまっすぐに投げかける。

「訊きたいことがある」

「うん、そうだと思った。ついてきなよ、きっと次のプログラムはアンタにとっても楽しめるんじゃないかな。──きみは順平のお気に入りみたいだしね」

 真人は薄手の服を翻し、下水が流れる道の奥へと悠仁を誘導した。どうこうするだけの呪力はない、との言葉を信じ、悠仁は言われるがまま後をついて行く。狭く細い小道を曲がった瞬間、臭さと埃が鼻を直撃して悠仁は顔を曇らせた。ひどい臭いだ。

「人間はこういうの嫌い?」

「嫌いって言うか、臭すぎてムリ」

「うーんそっか。俺はなんとも思わないんだけど。順平も嫌だったのかなー。だったらこんなに細かく再現しなくていいのにねえ」

 真人は平然とした口調で答える。汚水であちこちぬかるんでいて、足を取られないように気を付けながら歩かなければならなかった。悠仁は鼻をつまんだまま、壁伝いに慎重に進む。

「さっき、そういう領域になってる、って言ったな。順平のことを、全部……見なきゃいけないって」

「だってそう言ってただろう? 水族館でさ。『全部見せてくれ』『全部ちゃんと見るから』って」

「── なんで、それ知って」

「アンタだけが異物だからだよ」

 濁った灰色の髪がくるりと振り返った。左右で色の違う虹彩。無遠慮に不躾に、悠仁の中身をこじ開けて探るように瞳孔がすうっと細められた。

「異物だから目立つんだ。緑色の葉の上にオレンジ色の毛虫が一匹いたら、すぐわかるだろう? アンタの挙動はいちいち筒抜けなんだよ。ああでも、正確には違うかな。ここでの異物はアンタと、アンタの中身である宿儺だけだね。それ以外は全部生得領域のオブジェとその再現で、順平の一部だ」

「一部?」

「普通は他人の生得領域には入れないはずなんだけど。アンタは澱月の毒、食らったでしょ? それがきっと共鳴してるんだ。アンタの中に、順平の残穢が残ってるから」

 悠仁は胸元に手を当てる。澱月──順平のクラゲの式神に、突き刺された部分。心臓からやや離れた場所のそこは違和感もなく、治療を受けた覚えもないのになぜか綺麗に塞がっている。悠仁自身の鼓動が鳴るだけだ。

「ていうか、なんでアンタには毒効いてないわけ? けろっとしてるよね。宿儺の指も数本食べてるくせになんともないんでしょ。なんでかな?」

「……順平のあれって毒あったの?」

「…………そうだよ」

 真人は冷ややかに悠仁を見下ろし、気を取り直して道を歩き直す。ぴんと来ないのか悠仁は不思議そうに首を傾げたままだが、真人がすたすたと前へ進んでいくので置いて行かれては困るとついて行くしかない。二人ぶんの靴音が、細く長い通路に響いていく。

「ところで」

 通路を抜け、広い場所に出たタイミングで真人が意味深に呟いた。下水の集合地点なのか、丸い溜め池に何本も水道管が接続されている。汚水から発せられる臭気も凄まじく、悠仁は気持ち悪さに青冷めた。真人は人差し指をぴんと伸ばし、悠仁の目を狙って突き立てる。

「つくづく鈍いよね。不思議に思わなかった? なんで俺には触れてるのかって。他は全部すり抜けた・・・・・のにさ」

「……あ、」

 悠仁の目に刺さる寸前で止められた指先が、ぼう、とかすかに光り出す。視界が呪力の青い光で満たされ、その揺らめき越しに真人がにやりと頬を持ち上げた。

「仕組みは簡単なんだよ。答えはいつだってシンプルだ。ねえ、なんで分からな──、ッ!!

 突き立てられた指から寸分も視線をずらさないまま、悠仁は真人の手首を掴み会話を中断させた。体軸をずらし、掴んだ手首をぎりぎりと後ろへ引き、そのにやつく顎を下から殴り上げた。

「──は、クソ痛──」

「あ、効いてんだコレ? そんなら」

 殴られた衝撃で後ろへよろめいた真人の胸ぐらを捕まえ、悠仁は二発目の拳を振り上げる。真人はこれ以上攻撃を食らっては堪らないと、脚の筋肉をばねにして悠仁の拘束からすり抜けた。悠仁の拳は床に叩きつけられるかたちになり、真人はその隙に頭上の梁へと飛び上がった。

「ちょっと、失礼なんじゃない? 会話を遮るなんてマナーがなってないよ」

「テメエが小難しいことをゴチャゴチャ言うからだろうが。シンプルっつうんなら勿体ぶってねえでさっさと言えよ」

「……宿儺も可哀想だね。器がこんなバカだなんて」

「あ? 宿儺アイツはいま関係ねーだろ」

 悠仁は梁に腰かけた真人をきつく見上げる。忘れもしない。真人との決着は保留になっているのだ。正確には真人の逃走による不戦勝だが、それでは当然納得がいくはずがない。

「こちとらただでさえテメエには恨みがあんだ」

「そうだっけ? よく覚えてないな」

「とぼけんなよ。オマエが、順平を──」

 啖呵を切る途中で悠仁は言い澱む。

 ──コイツに、順平は、なにをされたのだっけ ・・・・・・・・・・

「思い出せないでしょ。ま、じきに分かる」

 真人はふわりと梁から降りた。薄い布地が空気をたっぷり含んで膨らむ。

「というか、こっちも結構苛ついてんだよね。順平の体に残った残穢で構築してる体なんだ、消費するだけ無駄だし、アンタとじゃろくな会話にならない。映画館で見せてあげたいものがあったけど、腹立ったから中止ね。順平のお気に入りだからって多少譲歩してたけど、もうそれも止めだ。ねえ宿儺の器。アンタは器だけど、いま宿儺はそこらへんを自由に闊歩しちゃってる。じゃあ──いまのきみの中身は、なんなのかな・・・・・・・・・・・・・・・・?」

 真人の動きを察知し、悠仁は身構える。瞬時に攻撃パターンを複数シミュレートし、そのどれにでも対応できるように神経を呪力の流れに集中させた。真人の服が軽く舞い上がる。
 ──それは一瞬にして視界から消えた。

「(──早)」

「中身、入れてあげるよ」

 ずどん、と悠仁の腹部、臍に真人の手が埋まる。

「……ぁッ、」

 急速に広がる灼熱感。血液に血液以外のものが混ざり、一滴残らずぼこぼこと煮立ち始める。悠仁の口から唾液が飛び出た。

「器は中身を入れてこその器だろう? 空っぽのままじゃ器として成立しない。だからね、俺がちょっとだけ中身を分けてあげるよ。こっちのほうが寂しくなくていいよね」

「え、あっ……テメエなに──」

「ああ、気にしなくていいよ。アンタの魂の形はそのままだから。無為転変あれをやるには呪力の総量が全然足りない。自然に朽ちるはずだったのにアンタが混ざってきたから、どうせならヒントをプレゼントしてあげようって思って。嫌がらせも含めてね」

 焼かれた臓腑が痙攣して、体液の流れがありとあらゆる管を逆流していく。言い表し様のない不快感が悠仁を遅い、ぐらりと足が揺らいだ。いまだ、と真人は微笑み、悠仁を下水へ突き落とす。

「少しだけ歩きやすくなったと思うよ、俺の呪力を流し込んだからね。こっちから接触できないなら、接触できるように理を変えてやればいい。答えはいつだってシンプルだ、複雑に枝分かれしてるように見えても、源流を遡れば必ず答えに辿り着く。じゃあね、行っておいで。宿儺のいない空っぽの器──」

 濁った水柱が上がり、汚水の中を悠仁は流されていく。真人の不適な笑みは、もう悠仁には見えていない。