薫は玄関を開けて仕事へ向かった。奏汰はドアが完全に閉まったのを確認し、ベランダへ回り薫が駐車場へ現れるのを待つ。やがて柔らかい金髪の彼が現れ、振り返ってこちらを見上げる。奏汰はそれに手を振って答える。いつものルーティーン。
「あいにいく『たいみんぐ』くらい、じぶんできめれますから……。『しんぱい』しないで。かおる」
奏汰は薫に借りている『部屋』へと向かう。仕事が上々なこともあってか薫の家は広く、ほとんど使っていない部屋があった。そこはもともと物置にしていた部屋で、埃っぽいからと薫は貸すのを躊躇ったのだが「うみのにおいがするから」と奏汰はこの部屋で寝泊まりすることを希望した。
「(──さて。『ばしょさがし』の『つづき』をしましょう)」
部屋にはサーフボードにダイビングスーツといったマリンスポーツの道具類が置かれている。奏汰は部屋のドアを背中で占め、ゆっくり深呼吸をした。
ここには海の匂いが染みついていて安心する。薫の匂いもだ。
それら雑多な物に紛れ、正面の壁には大きな地図が貼られていた。奏汰は横の棚から赤いペンを手に取り地図に向かい立つ。この県の詳細な地図だ。海岸沿いのある一ヶ所を起点に赤い印と線がいくつも描かれている。
「(まだあえないんです。うめなきゃいけないものが、たくさんあるから。うめなきゃいけない『したい』が、たくさんあるから……)」
中心になっている場所は──夢ノ咲学院。六年前に二人が卒業した学校。二人の、二人だけでなくそれ以外の人物も含めた無数の思い出が、埋まっている場所。
「(ころさなきゃ。こんどこそ)」
思い出せ。イチから順に。なにがあったのか、ひとつずつ順番に──。
どんな些細なことも漏らしてはいけない。
未練を残すな。
生まれ直すために。
***
八月三十日。海。
ぬるい雨が降る夜にも関わらず蝉がしつこく鳴いていた。夕方からずっとだ。夏の熱線に肌を焼かれ、じりじりと心身が炙られていく。少しでいいから体を冷やしたかった。体を冷やし、生きるための熱もなにもかもを手放してしまいたかった。
「……はあ。はあ、はあ……」
体がだるい。なんて最悪な一日なんだろう。いや、そもそもこの一日が最悪でないことなどなかったのだ。毎年繰り返される儀式と思い出される悪夢。いくら走っても海へ辿り着かない。海はもう正面に見えているのに、まるで逃げ水のように海が遠ざかっている。あつい。焼けた砂浜に足の裏が焼かれていく。あつくて、あついものしかない。もういやだこんなの。
──死んでしまいたい。
蝉がずっと鳴いている。耳に、鼓膜の奥に、脳の奥へこびりついたそれが奏汰の意識を濁らせる。
日が落ちきってから何時間経った? どうしてまだ日付が変わらない? いつになったら、どれだけ走れば海へ辿り着ける? なぜ蝉がまだ生き延びているんだ?
『──おめでとう。おめでとうございます』
『今年もお元気で。ご無事に過ごせますように。我らが生き神さま』
毎年毎年。いやになる。自分が『ひと』でないことを再確認し、自分が生きていることを思い知らされる。
自由でいられたのは一年だけだった。拘留され軟禁されそれでも生かされていた。中身がどうであれ、彼らにとっては神が生きていることが大事なのだ。
母体を失い、ぐらついた組織には象徴が必要だった。そのためにすがられる置物として、奏汰は自ら閉じ込められることを望んだ。どれだけ疎ましく思っていても彼らを見殺しになどできない。
それでよかった。最初のうちは。
生きてさえいれば誰でもいいのだ。置物になってくれればぼくでなくとも構わないのだ。
「──あ、」
ばしゃり。
急に足が重くなる。永遠とも思える砂浜を走っていたはずが、知らないうちに海の中へ入ってしまっていた。腰から下が水に浸かっている。ずっと走っていた体は急には止まれず、無様に水中をもがく。浮かばなければいけないのに。力を抜いて、抵抗せずに落ち着いて深呼吸しなければいけないのに。
「──あ、ああ──」
ふっと足が着かなくなった。浅瀬が終わり底が深くなったのだ。体が沈んでいく。水に飲まれていく。水に、海に、海で死ぬ──かつて象徴のために沈められた彼女たちのように──。
『死ぬなら海がいいな』
一瞬、意識が途切れた。
「う、おえ……っ、う、ううう。げほっ」
意識が戻ったとき、奏汰は浜に打ち上げられていた。大量の海水を飲んだらしく、胃液と体液が入り交じったものが内蔵を遡る。肺にも入り込んだようで、喉や鼻腔がひりひりと痛んだ。体を引きずれば引きずるほど砂粒がまとわりつく。
ずるり、と体を起こし、奏汰は自分に足がついていることを確認する。
「はあ、はあ、はあ……。なに、なんですか、これ」
二本の足以外に目に飛び込んだもの──。
「なんで、なんで──どうして、『ぼく』が」
奏汰は砂浜で『死体』を見下ろしていた。やや痩せた体格の青年。体温のない青い顔。濡れた明るい水色の髪。
自分自身の死体だった。
「あ、はは……、おかしい、じゃないですか。こんなの。ぼくが、なんで──」
『死体』を前に奏汰は狼狽える。どう見たってぼくが死んでいる。生きているわけがない。だが心臓は思い出したように早鐘を打ち、血液を隅々へ送り込む。かあっと体が熱くなった。
「ぼくが──ぼくが、ころした……?」
『死体』はなにも答えない。ただ横たわり目を閉じているだけだ。奏汰はおそるおそるしゃがみこみ、震える手で『死体』に触れた。冷たい。温度がない。触っている感覚がほとんどしない。──死んでいる。
──ずっと死にたかった?
ずっとずっと、生かされるのにうんざりしていた?
奏汰の瞳から水分が蒸発し、不穏に騒いでいた血液が凪のように静まり返った。おそろしく冷淡な声で奏汰は呟く。
「……うめなくちゃ」
こんなもの、自分一人では埋めれない。そのとき、ポケットからべちゃりとスマートフォンがこぼれ落ちた。持ち歩く習慣などないのだが、自宅を飛び出した際に引っ掴んで来たらしい。反射的にそれを拾い上げる。
「(ちあきには、だめ。ぜったいに、いえない……)」
スマートフォンは完全防水のおかげで問題なく起動した。夜の海で煌々と液晶が光る。
奏汰は濡れた指先で電話帳をスライドさせていく。脳は未だ酸素不足のようで、ずらずらと並ぶ人名がただの飾り罫のように思えて思考を上滑りしていった。
ふと、文字ばかりが列挙されるなかに、ぽつんと魚の絵文字が泳いでいるのに気づく。
学生時代にふざけて登録した名前。奏汰は目に留まったその名前をタップし、発信ボタンを押した。
「……もしもし、かおる?」
何て言おう。思考がぐるぐるして纏まらない。
ぬるい小雨がまた降り始め、潮水を浴びた体表を洗い流していく。耳の奥の蝉も再び鳴き始めた。突然の連絡に電話口の薫も慌てているようで、ばたばたと騒がしい。奏汰はどうにかして正気を保とうと頭を振り、要点を絞り出した。
「『したい』があるんです。ぼくだけじゃ、うめれません。てつだって、くれますか……?」
口に出した途端、がくりと全身の力が抜け奏汰は崩折れる。蝉がうるさい。こんな夜中に鳴くはずないのに。
物音と共に一度電話が切れ、すぐさま掛け直される。が、溺れて疲弊した体は重くもうぴくりとも動かせそうになかった。
「(……さみしい。あいたい。かおるに。かおる)」
許されるだろうか。生きることは。死ぬことは。自らを埋めることは。
奏汰は呆然と膝を抱え、浜に打ち上げられた自分の死体を見ていた。
「旅は道連れ世は情け」 →再録トップページへ
1.容疑者K/2.蔵匿罪/3.束の間のワルツ/4.あるいはひとつの終わり/5.まじない/6.共謀罪/7.点と線/8.リバースデー