午前10時のユウレイクラゲ─03.名無草、根無言、蛻の夏 - 1/2

 なんだと思う、と質問で返された。

「図鑑ですか」

「うん、そう」

 足元には分厚く重そうな本がどっさりと積まれていた。動物、植物、天文、気象、鉱物。専門的な学術に用いるような形式ばったものから、子供向けに柔らかい口調と振り仮名が使われたものなど対象年齢もジャンルもバラバラだ。順平は膝を折り、山を構成するタイトルひとつひとつにざっと目を通す。

「いまはね、人間の勉強中」

 頭上から降ってきた声に反応すると、ハンモックに寝そべった真人がへらへらと視線を飛ばしていた。左右で色の違う瞳に、顔面を分断する縫い目の痕。睫毛が重たい瞼をさらに重たく飾っていて、つくりものみたいに綺麗な人だな、と順平は思う。視線に気付いたのか、真人はなにもかも分かりきったような笑みを浮かべた。ふわりと降りかかってきたそれに、順平の心臓がぎくりと硬直する。

「これどうしたんですか?」

「拾った」

「こんなにたくさん?」

「ゴミ捨て場にあったんだよ。紐でまとめられてて」

「勝手に持ってきていいんですか」

「いいんじゃない? ゴミ捨て場ってゴミを置くんだろう?」

 まあ、そうですけど。と言葉を濁す。こんなに美しい人であるというのに行動の端々がどうも奇妙で、言葉を交わすたびに順平は虚を突かれたような気分になる。

「ゴミからでも学べるものがあるってことだよ」

 真人は寝そべったまま大きく背伸びをした。空中で左右に揺れるハンモックは、蝶の蛹にどことなく似ている。

 ──この人は何者なんだろう。

 つくづく分からない。知り合って一週間ほどになるが、順平はこの謎めいた人物について未だ実態を掴めずにいた。さも意味ありげに詩的な見解を述べたかと思えば、まったく根拠のない適当を口走ったりする。生まれたての幼児と深窓の哲学者を無理矢理くっつけたような歪さ。そもそも人間ではなく呪霊だから、と言い張られればそれまでだが、ヒトのかたちをしているのだからそこにヒトの虚像を見出すのはなにもおかしくない。

 真人は本を閉じ、身を乗り出して順平を見下ろした。鈍色の長い髪がさらりと零れる。合間からずるりと腕が伸び、読み終わった本が差し出された。

「順平、そこから適当に一冊取ってよ」

「なんでもいいんですか?」

「なんでもいいよ。どれでも一緒だろうし」

 そんなもんですか、と順平は本の山の一番上に積まれていたものを取る。シリーズものの植物図鑑のようで、通し番号を示す数字と『水草編』の箔押しが施された本だった。順平はそれを、真人が差し出している本と交換する。

「昆虫図鑑……」

「虫に限らず、基本の動植物については知ってるつもりだったけど、案外未知の情報が多かった。読書は面白いね」

「……」

「あれ、順平、虫は苦手?」

 そういうわけじゃないんですけど、と順平は引きつりかけた口元を手で覆い隠す。蝶やカマキリなどの標本が隙間なく並べられた表紙の、昆虫図鑑だ。

「いえ、……ちょっと」

「ふうん? まあいいや」

 真っ黒い外殻とツノが象徴的なカブトムシの標本写真。そのすぐ横に、脚の付け根がありありと見て取れる裏側も掲載されていた。脚に生えた細かなギザギザまで鮮明に映っていて──以前口内に放り込まれたあれ・・の感触が思い出される。

「……順平?」

 順平は慌てて膝を屈めて口を抑えた。が、一度ひっくり返った感覚は薄れるどころかありありと蘇り、ぐるぐると意識を攪拌し続ける。

「──う、ぇっ」

 手の隙間から液体が溢れ落ちる。鼻に抜ける酸っぱい臭い。顎、首元にも飛び散り、地面に汚い色が広がっていく。見開いた目から生理反応の涙がぼろぼろと落ちた。嘔吐感の波に耐えれず、片手はシャツの裾をぎりぎりと握り込む。

 ──食える食えると囃し立てられた声、空中で脚をじたばたさせてもがく虫、その動きそのままが口内に再現されて──。

「順平」

 空になったハンモックが大きく揺れている。寝床の主はいつのまにか地面に舞い降りていて、ふわふわと服の裾を広げながら順平に近付いた。薄い布地が軽くはためき、継ぎ接ぎだらけの両腕がそっと、吐瀉物まみれの順平の手を包み込んだ。

「こわくないよ」

 真人は優しく呼び掛け、順平の両手をそっと剥がした。どろどろに汚れた顔を見られた羞恥心で、顔を背けてしまう。信奉するこの人に、こんな情けない自分を見られたくなかった。人でないはずなのに、真人の手はぬるい人肌を保っている。その手がゆっくりと順平の汚れた指を解いていき、真人はおもむろにその一本を口に含んだ・・・・・

「──っ、ま、真人さん、なにして……」

 肉厚な舌が順平の指をなぞり、付着していた体液を舐めとっていく。柔らかい舌と唾液の感触。人差し指から中指、薬指と順に舌が移動していき、妙な感覚に順平は身動きひとつできなくなる。汚れた手を綺麗にしている、とでも言うのだろうか。真人は目を閉じ、無心で舌を這わせ続けている。順平の右手の小指を舐め終え、左手の小指を口に含もうとしていたところでようやく動きが止まった。真人の頬がうっとりと持ち上がる。

「俺なりの洗礼」

「……、でも」

「順平はこういうの、嫌?」

 真人は指をくわえたまま、つくりもののような顔で微笑んだ。縫い目が歪にひきつるも、それが却って神聖さに拍車をかけていて順平は拒むことができない。熱い唾液と肉の感触が指を飲み込む。

「嫌じゃない、でしょ」

「…………えっと」

「順平」

「……嫌じゃ、ない、です」

 真人による洗礼は続き、舌の全面が手のひらを、先端が爪の生え際を綺麗にしていく。最後に薄い唇が手の甲の間接部分に触れ、愛おしそうに目が三日月型に変わった。

「ね」

「……はい」

 気付くと嘔吐感の波は凪のようにぴたりと治まっていた。ようやく離された両手をじっと見つめる。唾液のせいでかすかに表面が濡れていて、それを満たされている・・・・・・・と感じている自分が不思議でたまらなかった。

「うん、それならよかった。これはどうしようもないけど、手はこっちのほうがずっといいよ」

 真人は立ち上がり、地面に撒かれた吐瀉物の残骸に目を遣る。あとで掃除します、と言った順平に、いいよ別に放っといて、と答えて脇に置いていた本を再び手に取った。適当にぱらぱらとめくり、中に描かれている挿し絵を楽しむ。

「これは綺麗な本だね」

「植物図鑑ですからね」

 順平は後ろから真人の本を覗き込む。どのページにも水彩や色鉛筆で描かれた植物の挿し絵が載っていて、眺めるだけでも見応えがある本だ。本が見やすいようにと、真人は少し体を傾けた。

「根っこのない植物があるんだね」

「いいえ、どの植物にも根はありますよ。ないように見えるだけで」

「そうなの?」

「読むとわかるんじゃないですか、たぶん」

 へえ、と真人は順平の肩に首を預ける。一房しなだれかかった髪が、首筋を淡くくすぐった。ぱち、と目が合い、会話が途切れる。無音の状況に居心地の悪さを感じ、順平は間を持たせるために口を開いた。

「人間の勉強なのに、なんで植物とか……昆虫の図鑑を?」

「ん? 自分のルーツを知ることはおかしくないだろう? 人間がどこから来たのか、いまいるのはどこなのか、そしてこれからどこへ行くのか。過去と現在と未来の観測だ。これはね。輪郭を抽出するための勉強」

 真人は本をぱたりと閉じる。順平の背中に手を回し、くるりと軸を反転させた。踊るように手を広げ、積み上げられた本の山を指す。詩でもそらんじるかのような口調で、真人は順平に語りかけた。

「己の輪郭を知覚する方法はなんだと思う? それはね、異物を取り込むことさ。自分と違うものに触れて、自分と他者との境界を知るんだ。そうすることでやっと、自分の輪郭が明らかになる。例えば、俺には根っこがないだろう。俺は水草じゃないからね。そして俺には昆虫みたいな六本脚じゃない。二本だけだ。他者にあるものと自分にないものの差の勉強さ」

 わかる? と真人は問いかける。順平が真人と知り合ってからの数日間は、答えがあるようでない質疑応答の繰り返しだった。何度も問い、何度も問われ、その都度答えのようなものが用意されてきた。順平は、わかります、とそれを受け入れることしかできない。

「自分の輪郭を正しく理解し、覚え続けていれば再現するのは容易だ。順平も自分のことをよく知るといい。よく見てよく考えるのは得意だろう?」

「自分のことを、考える……」

「そうだ。他者という異物を通して、自分について考えること。半生って言うのかな?」

「半生……」

 順平は真人から与えられた言葉を噛み締める。半生──いままでに辿った人生。

 順平は少し考え、本の山からクラゲの図鑑を一冊選び取った。

「これ、借りていいですか」

「いいよ適当に持っていって。もともと俺のものじゃないし」

 深い青色の表紙に白く不定形な楕円形が浮かんでいる、美しい本だ。カバーについた埃を丁寧に拭き払い、ふう、と息を吹き掛けた。くすみが取れて表紙の青と白のコントラストがより明確になる。

 順平はそれを脇にかかえ、そろそろ時間なので、と階段を昇り地上へと戻っていく。

 

  ***