あの星明かりを見ただろう?
日が暮れ落ちたら顔を出し、月が昇れば居なくなる。そうして夜が終わるころ、再び明るく輝いて、朝日の中へ消えていく。たったひとりで粛々と、夜の底へも行けなくて、真昼の空にも出られない。
それがどうにも愛しくて、この手を伸ばしてみたくって。
でもああいうのって届かないからいいんだよ。届かないのが当然だから、ずっと眺めていれるんだ。なんだただの石ころじゃんかって、幻滅したくないんだもの。
だからボクにとってのきみは、唯一無二の憧れで。
恋と呼ぶには、ずるすぎる。
***
私物整理もだいたい片が付いた。家具も元の位置に戻したし、十分綺麗な部屋と言えるはずだ。
優介は最後の箱を手に取り少し考えて、丁寧に引き出しの奥へしまう。きっと彼は俺を許さないだろうけど、それでいい。彼も彼らと等しく、なにもかも忘れてしまうのだから。
ふと、引き出しの最奥部に四角い箱が押し込められていることに気付く。
「(あ、懐かしいな。前はこっちのほうをよく使っていたっけ)」
引き出しを丸ごと引き抜いてテーブルへ置いた。説明書や買った当時の保証書の束を除け、その外箱を開ける。
出てきたのは、中等部の頃によく使っていたコンパクトデジタルカメラだった。優介はそれを手に取り、落とさないようにひとまずストラップを手首に通す。
写真は良い。一度通り過ぎればいずれ消えてしまいそうな日々を、正確に記録に残せる。シャッターを切るたびにそれらは永遠となり、そのときの感情さえも一緒に閉じ込めることができる。手放したくないものを、手元に残すことができる。
だが最近は、その場で現像まで終えられることからもっぱらポラロイドカメラのほうを愛用していた。この古いデジカメの存在なんてすっかり忘れてしまっていたのだ。カメラは忘れないための道具なのにそれ自体を忘れてしまうなんて、と優介は自嘲する。
久しく使っていないし既に壊れてしまっているかも、と思いつつ電源ボタンを押す。意外にもまだ電池は残っていたようで、企業ロゴのある起動画面が液晶に表示された。メモリーカードにもまだ余裕があるらしい。もうあと十枚程度なら問題なく撮れそうだ。
優介はなんとなく再生ボタンを押し、記録フォルダへ進む。このカメラで最後に撮った写真はなんだっただろう。
ぴっ、と電子音と共に画面が切り替わった。
表示されたのは、カメラ目線で笑う自分自身と、同じようにピースサインで笑う彼──天上院吹雪の姿があった。
「…………吹雪、」
優介は眉根を下げ、唇を強く引き結ぶ。日暮れの風の木立のような、どうにもできないざわめきが心臓のあたりを揺れ戻す。
「(だって、仕方ないじゃないか。きみは俺のことなんてちっとも理解してないんだから)」
この写真を撮ったのは確か、高等部へ上がる直前の春休み。特待生用の白いジャケットを吹雪と共に着れることが嬉しかった。自分たちは中等部から一緒で、高等部からもこれまでと同じように肩を並べられることが誇らしかった。そのことで胸がいっぱいで、新しいジャケットが届いたその日のうちに三脚を立てて記念撮影をした。
写真の中の吹雪と優介は晴れやかに笑っている。もうすぐ始まる新学期にわくわくしているのだろう、嬉しさや期待感に満ちた、なんの迷いもない笑顔だった。
はは、と乾燥しきった笑い声が漏れる。
このデータも消してしまおう。どうせあちら側へはなにも持って行けやしない。できるだけ身軽に身ひとつに、影も足跡も残さずに執り行わなければならない。
優介は削除ボタンに親指の腹を押し当てる。
『削除しますか?』
無感情な確認メッセージが表示された。喉元にヒヤリとした感覚が奔り、しばらくその画面で硬直する。デジカメを持つ手が細かく震え始めた。
コルクボードからピンを外すのと変わりない作業のはずなのに、決定ボタンを押すことができない。優介は深く息を吐きながらずるずるその場へしゃがみ込む。
──すべて終わりにしたつもりだったのに、まだこんなところに未練が残っていたなんて。
写真の中の吹雪は笑っている。普段と変わらない様子で、このあと彼の部屋を訪ねてもきっと同じ笑顔を浮かべるだろう。彼のそういうところが好きで、そういうところが嫌いだ。優介は背中を丸め、カメラの液晶をいまいちど眺める。
「消さなきゃいけないのに、消せないなあ。……消せるわけないよ」
ふと、廊下側からなにやら騒がしい音が聞こえた。複数の女子生徒の声と足音が奥から徐々に近付いてくる。きっと特待生の誰かが連れ込んだのだろう。いまは個人的な感傷に浸っていたいのに、と優介はうんざりした表情を浮かべた。静かな特待生寮が台無しだ、甲高い声は耳に響く。
プライベートな時間を邪魔されたことに苛々して、優介はカメラを持ったまま立ち上がりドアを半分開けた。一体誰が連れ込んできたのか、それだけでも確認しておきたい。
「!! 吹雪」
「あっ藤原! ちょうどいいところに!」
よりによってお前か、と辟易したのも束の間、彼は砂漠でオアシスを見つけたかのように顔を綻ばせた。どうやら吹雪はいつものように女子生徒たちに追われているようで、助かったよと言わんばかりに、半開きにしたドアの隙間へ体をねじ込もうとしてくる。
──いま部屋を見られるのはまずい! 片付けたとはいえ、カーペットの下には決定的な証拠が刻まれている。他の誰も気付かないような、どうでもいい変化を見つけるのが吹雪は得意なのだ、家具の微妙な位置のずれもきっと目ざとく気付くだろう。
「待って吹雪、いま部屋はちょっと!」
「えっあっそう、そうなのかい? ああ、夏休み前の荷造りで散らかってるんだね。じゃあ分かった、外に行こう。実はいま追われてて。……わぁ、もう追いついて来ちゃったかぁ」
女子生徒の大群が奥から押し寄せてきて、その迫力に二人は頬を引き攣らせた。吹雪は優介へ素早く耳打ちする。
「よし、逃げるよ藤原。いまから寮をぐるっと一周して外に出るから。撒くのは案外簡単なんだってことをきみに教えてあげよう。いくよ、3、2、1……GO!」
「わっ待ってよ吹雪!」
アイコンタクトだけで足りるとでも思ったのか、吹雪はろくに打ち合わせもしないままに優介の片腕を掴んで走り出した。躓きそうになるのをなんとか堪えながら、引っ張られるがままに優介も共に走り出す。手にしていたカメラはズボンのポケットに滑り込ませた。
背後からは女子生徒たちが至極楽しそうな顔で追いかけて来る。少しでも気を抜けば押し潰されてしまうかもしれなかった。吹雪のファンに巻き込まれるのは初めてではないが、これに自分が慣れることは今後絶対にないと言えるだろう。毎度うまくいなしている彼はすごいなと思う。
寮のあちこちを駆け抜け、時折ちらちらと後ろを確認する。
「吹雪おまえっ、今日は一体なにしたんだ」
「別になにもしてないよ? 一人にサイン描き始めたら、止まらなくなっちゃっただけ」
「ああ、絶対それだよ……。いちいちファンサービスに応じてるのが悪いんだ」
「だってさぁっ、向こうから求めてくるんだもの。応えてあげなきゃ可哀想だろう?」
「それでこんなに追いかけ回されるなんて、本末転倒じゃないか! 迷惑千万極まりない!」
「迷惑だなんてそんな。ボクとしてはむしろこのくらいスリリングなほうが、人生にメリハリがあって楽しいくらいさ」
「お前がよくても巻き込まれるこっちが迷惑なんだよ……! なんでこう、きみってやつはいつもいつも」
「ふふん、世界がボクを、放っておかないのさ……!」
とうっ、と吹雪は階段の一番上から飛び降りた。その跳躍は高く、天井からぶら下がるシャンデリアに激突するんじゃないかと心配になるほどだった。特待生用の白いジャケットが照明を眩しく跳ね返す。
しゅたっ、と彼はハッキリそう声に出し、華麗で軽やかな着地をキメた。
「吹雪!」
「藤原も早く来なよ! もう少しで撒けるはずだ、このまま海に出よう!」
彼は階下から自信たっぷりのウインクを飛ばす。舞い散る星屑に目がチカチカした。はぁぁ、と優介は心底迷惑そうに肩を落とし、苦笑いしながら階段を駆け降りる。ばかばかしくて眩暈がして、ただその感覚が不思議と心地いい。
──こんなに無礼で無遠慮で、どこまでも無邪気でうんざりするほど爽やかなやつを、俺は手放そうとしている。
「? どうしたの藤原」
「なんでもないよ。吹雪、どうせこのあと暇だろ? 海に行くなら灯台のほうまで行っちゃおうよ」
「いいね。きみ、あの場所好きだもんね。それに、もうすぐ夕日が綺麗に見える時間帯だ」
女子生徒たちが二人を探す声が後方から聞こえてくる。寮内を駆けずり回ったのが効いたのか、彼女たちも走るのに疲れたり飽き始めてきているようだ。見つからないことを残念に思ったのか、諦める者もちらほら出てきている。
そろそろ大丈夫だろう、と二人は判断し、寮を出て島の反対側にある灯台へと向かった。