オブラートが嫌いだった。
それは、粉薬を包み込むオブラートとしても、婉曲的に語るときのオブラートとしても。もっと素直に言ったらどうだ、はっきりしない曖昧な言い回しが苦手で、苦笑いを浮かべる相手から無理やりに聞き出したこともある。
薬を飲み込むためのオブラートはもっと嫌いだった。飲みやすくするため──とは言うものの、紙に包まれた塊を飲み込むことにどうも抵抗があり、結局オブラートは使わず粉状のまま飲むハメになるか、カラのカプセル剤に詰め直すか。
幼い頃に風邪をひいたとき、母親は泉がオブラートを苦手なのを知ってか後者を選ぶことが多かった。大ぶりのカプセル剤は子供の小さく狭い喉に引っかかりやすかったが、それでもオブラートよりはマシだったのだ。
泉は白い粉末をカプセル剤に詰める。千切ったメモ用紙を三角に折り、そのカドを使って指先の小さなカプセルに粉を流し入れていく。こうすれば粉の味も口に広がらないし、錠剤と同じ感覚で飲み込むことができる。カプセル剤の素材はオブラートとほとんど同じものだから、濡らして台無しにしてしまわないよう細心の注意を払う。
さら、さら、さら。
二つめのカプセル剤に蓋をした。メモ用紙に広げた粉もちょうど無くなったので、密閉できるチャックのついた袋へスプーンを挿し入れる。薬サジがあればよかったのだが、一般家庭にそうそうあるはずがない。代わりに、この家のカトラリーで最も小さなティースプーンを泉は使っていた。カラのカプセル剤をつまみ上げ、丁寧に粉を流し込む。
「(これでみっつめ)」
一区切り、と言わんばかりに泉は深呼吸し、椅子に背中を預けた。不器用というわけではないが、こんな細かい作業は神経が疲れてしまう。座ったまま背中を伸ばしたり、肩を上げ下げして筋肉をほぐす。呼吸ひとつにも過敏にならざるを得ない。思い出したように心臓がどくどく動き出した。もしかしたらさっきまでずっと、ほとんど息を止めて作業していたのかもしれない。
「(これで半分。あと、みっつ)」
泉は机の上に転がるカプセル剤を眺めた。先ほど中身を詰めたものがみっつと、カラのままのものがみっつ。全部で六錠。チャック付きポリ袋の粉も、もとから少量ではあったが残り僅かになっている。
暗い部屋の中で、机と手元を照らすためだけのスタンドライトが静かに光る。ふと、ティースプーンを握る手が微かに震えていたことに気づいた。
「(震えてる? どうして。怖いことなんてないのに)」
怖いわけではない。むしろ、嬉しさを噛み締めるのに必要な時間のはずだ。
それは一瞬であり永遠であり刹那であり悠久である。
終わりであり始まりであり、最期の審判のラッパはもうずっと前から、そもそも最初から、ずっと聞こえていた。それに気付かなかっただけだ。
泉は慎重に作業を続け、六錠すべての中身を詰め終えた。からっぽになったポリ袋は洗面所で軽く水洗いをしてからゴミ箱に捨てる。
***
『準備出来たよ。今から行くね』
スマホのメッセージアプリにそう打ち込むと既読はすぐについた。
『わかりました。待ってます』
中身を詰め終えたカプセル六錠をピルケースにしまう。いつも使っている鞄に、スマホと財布、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを二本。手帳に簡単なメモを残し、泉はそれを躊躇なく鞄の内ポケットにしまった。
「(あとでかさくんにも書かせないと)」
靴を履き、ちょうど玄関を開けようとした途端、扉がスッと勝手に開いた。母がちょうど帰ってきたのだ。
「あら、泉。出かけるの?」
「うん、ちょっとコンビニ」
破裂しそうになる胸を押さえ、泉は普段通りの表情を繕う。ここで怪しまれてはいけない、練ってきた計画が全て駄目になる。
「行ってくるね、ママ」
いつも通りのトーンと仕草で、泉は母と入れ違いに自宅を出た。母が「行ってらっしゃい」と自分に向けて言うのを背中で聞いた。心臓のペースに合わせるように小走りになる。ためらってはいけない。ここで道を引き返してはいけない。鞄に入れたピルケースがジャラジャラ鳴っている。
「(まだ戻れる、なんて虫のいい話。あるわけがないでしょ……)」
もう、地獄に落ちるしかないのだ。
***
「効果のほどは?」
「さあ、知らない」
生意気なクソガキが生意気な口を聞いたから、こちらも負けじと生意気に返す。司はピルケースからカプセル剤を一粒つまみ上げ、電気に透かして中身の粉を観察していた。老眼が始まっているわけでもないのに目を細めたり、カプセル剤を近づけたり遠ざけたりと、まるで宝石の真贋でも調べているようだ。
「味が期待できないらしいから詰めてあげたんだよぉ」
「そうですか。わざわざ?」
「だって不味くて吐き出したら失敗するでしょ」
「オブラートでもよかったのでは」
「俺、オブラート得意じゃないんだよねぇ」
泉は椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を乗せて怠そうに返事をする。その様子がバレたのか、司はカプセル剤をケースに戻し、泉の顔を覗き込んだ。
「……瀬名先輩、疲れてますか?」
「……別にぃ。疲れてようが、これからのことには関係ないでしょ」
泉は背もたれに顎を乗せたまま、首の角度を司のほうへ向けた。司の赤毛がひときわ目立っている。地獄道中だからそう感じるのだろうか。透き通る紫の目が泉の心身を探る。
「あのう。今更、と思われるかもしれませんが……瀬名先輩、本当に死のうと思ってますか? 私への同情や、義務感や、責任感で死のうとしていませんか?」
「──え、」
司の眼球に自分の影がかすかに反射していた。紫の目から視線を外すことができない。固くまっすぐで、いびつな思想を抱えることを微塵も感じさせない、頑固で意志の強い視線。目力だけは昔から強かったね、なんて。
「今ならまだ、引き返せます。お情けで死なれるのなんて御免です。死が不平等であるからこそ、自死は高潔で孤高で唯一無二であるべきです。ためらいがあるならここで──」
「……そんな、虫のいい話。ここまで来て引き返すなんて……」
ここまで来たらもう、地獄に落ちるしかない。
「引き返せるわけ、ないでしょ……」
泉は声帯を絞り出すようにして呟く。机にはピルケースと、ペットボトル入りのミネラルウォーターが二本。その一本に手を添えるとぞっとするほど冷たかった。が、不思議と手を引っ込める気は起きず、泉は氷水ほどに冷たいボトルの栓を開けて一口飲もうとした。
「瀬名先輩」
カプセル剤を一飲みさえすればそのまま真っ逆さまに地獄へ落ちれるのに、なぜ司は引き止めようとするのか。
「虫のいい話? 瀬名先輩、こんな虫のいい話があると思ってるんですか? 飲めば死ぬ毒薬なんて、ただの高校生が手に入れられるわけないでしょう。引き返すもなにも、ここは最初から地獄じゃありませんか。瀬名先輩が思い描いた、私たちの理想の地獄ですよ」