ある夜、教会の清掃を終えてスーパーで四割引になった惣菜を買った帰り。
暗闇の向かい側から、一匹の子猫が「にゃーん」と俺を呼んだ。生後三ヶ月くらいだろうか。動物は嫌いなほうではない。レジ袋を下げているからなにか餌をねだりにきたのだろうが、あいにくこの中に子猫に適した食事は入っていない。「きみにあげるものはなにもないよー」と子猫に話しかける。ずいぶん汚い猫だ。
「うわっ、血がついて……あれ、きみのじゃないね?」
前足に赤い液体がべっとりとついていたが、子猫はどこも痛がる素振りを見せない。
「じゃあ……誰の血?」
「おれだ……」
「──!?」
不意に男の声がした。電柱と民家の塀の間からだ。心臓がバクバクしている。嫌な予感しかしない。覗き見てしまえばもう後には戻れないだろう。
「(面倒ごとは御免なんだけど)」
巻き込まれたくないし、かといって見なかったふりをする決断もできない。その場から動けずたじろいでいると、足元にじわりじわりと血だまりが広がってきた。
「(ああもう──どうにでもなれ)」
「あの……大丈夫ですか?」
これだけ派手な出血だ。ひき逃げとか通り魔とか……とにかく眼前に広がるであろうスプラッタに腹をくくり、おそるおそる声をかける。
「救急車とか、呼びま──」
「いら、ない」
突然、目の前が暗くなった。
「(ちがう……。赤だ)」
全身血まみれの男が、俺を突き飛ばして覆いかぶさっている。後頭部をアスファルトにマトモに打ち付けたのか、ガンガンずきずきと痛みが広がってきた。
「(おいおいおいおい……なにこれ?)」
このあいだ女の子と見たホラー映画の始まりがこんなかんじだったなぁ。俺、ホラーはそれほど得意じゃないんだよね。
「すまん……すぐ終わる、から」
「……なにが?」
男の声は弱々しくもよく通る声色だった。どうでもいい走馬灯から引き戻され、男と目があう。大量に出血したはずなのに、瞳は飢えた獣のようにギラついていた。口元から小さな八重歯が覗く。喰われる、と瞬間的に思った。
「血が……足りない」
「──ッ!」
男は歯を剥き出しにして俺の首筋に噛み付く。尖った歯が皮膚を突き破り血管を裂き、そこに生ぬるく湿ったなにかが当てられる。舌だ。こいつは俺の血を吸っている。
「おま、え……きゅうけつ、き……」
打ち付けた後頭部の痛みが、首元を流れる脈動と同期する。じわり、じわりと、際限なく流れ出てしまう気がした。それは血液だけでなく、やがて頭の痛みも薄らいでいく。四肢は金縛りにあったみたいに動かせない。ただ、首筋にあてられた生暖かい舌の感触だけが、いまのすべてだった。
「……まずい」
「……は?」
男は血を吸うのをやめ、俺の顔・体をまじまじと眺めて言う。
「……しかも男だったか」
「男で悪かったね」
「すまない!ボーッとしていてよくわからなかったんだ、許してくれ!」
「ボーッとっていうか、胸に穴あいてるのって朦朧って言わない?」
ようやく立ち上がった男の胸には、向こう側が見通せるくらい立派な穴があいていた。ぽっかりと、血管がぶら下がってたりとか肉片がはみ出てたりとかそういうなんのグロテスクさもなく。
「あんたさ……吸血鬼?」
「まだ半分だけだ。ご馳走になった。じゃあな」
男は胸に清々しい穴をあけたまま立ち去ろうとする。ほんの数分前まで瀕死だったとは思えない。足取りも軽くまったく普通だ……全身血まみれで胸に穴をあけていることを除けば。
「待ちなよ」
「ん? なんだ」
「……服。うちで洗ってけば?」