海が呼んでいる - 2/3

 雪欠を乗せた風がびゅうびゅうと音を立てる。こんな南の島に雪がちらつくなんて珍しい。昼間の穏やかな快晴はどこへやら、天候は夕方になるにつれ崩れ出し、気温の下降も留まることを知らない。アカデミアの建物は島の温暖な風土に合わせた仕様になっているため、寮の廊下は驚くほどに底冷えした。

 ほかの部屋の主には気付かれないよう、吹雪はこそこそと目当てのドアをノックする。床から冷気が這い上がってくるようで、うぅ寒い、とその場でひとりごちた。消灯時間はとうに過ぎている。自室を抜け出していることがバレたら大目玉だ。吹雪は身を小さくしながら、ドア一枚隔てた向こう側へ呼びかける。

「藤原、夜遅くごめんよ。ちょっといいかな」

 トン、トン、と指の骨で再度扉を叩く。時刻は夜11時半。健康な中学生が健康に過ごすためにはそろそろ眠らなければいけない時間だ。部屋の主である優介も、もう眠ってしまっているだろうか。

「……」

 返事はない。前回たまたまこうして夜遅くに尋ねたときは、なんだい夜遅くに、と寝ぼけ眼をこすりながら出迎えてくれていた。今回はそれがない。それだけ深く寝入ってるのかもしれないな、と思いつつ、ドアノブへなんとはなしに手をかけた。──開いている。

 そのままノブを回すと、ごう、と冷たい風が勢いよく飛びかかってきた。

「う、わっ」

 突風に髪が舞う。一瞬で体温をすべて奪われてしまいそうだ。吹雪は暗い廊下を見渡し、誰にも見られていないことを確認してからそっとその狭間へ体を滑り込ませた。

 真っ暗な部屋だった。奥の窓だけが開いていて、そこから二月下旬の冷たく厳しい外気が流れ込み続けている。

「(いない……)」

 ベッドの上ももぬけの殻だ。吹雪は抱えていたノートをぎゅっと体へ押し付ける。間違えて持って帰ってしまったノートを返すつもりだった。明日の朝一番最初の授業で使うらしく、どうしても今日中に返却する必要があると思ったのだ。

 白いカーテンが闇を孕んで揺れている。窓の向こうはこの部屋の黒色と地続きになっていて、ちらつく細雪もその境界を曖昧にする手助けをしていた。絶え間なく吹き込んでくる寒さに、吹雪はぶるりと自身の肩を抱える。

「(藤原、どこへ行ったんだろう。こんな夜遅く、雪も降ってるのに)」

 ノートをひとまず机の上へ置いた。ノートの返却よりも、彼が姿を消してしまったことのほうが重要だ。勝手に開けて申し訳ない、と心の中で謝りながら、クローゼットを開く。コートの類はハンガーに掛かったままだが、中等部の焦茶色の制服が見当たらない。制服のまま、彼はどこへ行っているのだろう。念のため覗き込んだ窓の下はただの地面でしかなく、それが確認できただけでも少しだけ安心できた。

 吹雪は一度自室へ戻り、寝巻きの上にコートを羽織った。全身を包める大判のストールも併せて身に着ける。寮の正門はもう施錠されているだろう。それならば窓から抜け出すしかない。幸いにも、部屋の窓の正面には大きな木が生えている。窓から身を乗り出し、枝を伝って部屋を出た。

「(さて、藤原はどこだろう。行きそうな場所なんてあるかな)」

枝の隙間から遠くを見渡す。

「(……昼間に歩いた、砂浜、とか……)」

 視界の大部分は黒々とした闇に塗りつぶされていた。あの深さの正体はなんだろう、と吹雪は睨むようにその黒を見つめる。明かりはなにひとつなく、反射的にごくりと生唾を飲んだ。──あそこは海だ。手前にある砂浜もいまは夜の闇にとっぷりと呑まれていて、あの一帯がまるごと現世から切り離されているようにも思えた。

「……藤原?」

 ふと、その漆黒の場所に人影のようなものが見えた。奥行き感のない闇の中でそこだけが不自然に立体感を保っている。波打ち際で佇む立ち姿は、吹雪の親友である藤原優介できっと間違いない。昼間に砂浜を一緒に歩いたときに、なにか気になることでもあったのかもしれない。

 吹雪は決心して木から降りた。地上はところどころに雪が積もり始めている。今夜このまま降り積もれば、きっと朝になるころには島全体が白銀色に染まっているだろう。

 雪で滑らないように気を付けながら、吹雪は人影の見えた方向へ歩いていく。コートを着てきたとはいえ、内側にあるゆったりした寝巻きはたいして防寒の役には立たなかった。地面から吹き上がってくる風が足首に絡みつく。風は鋭く痛く、まるで体の芯まで切り刻まれてしまいそうだった。

 靴底が砂を噛み締める。昼間歩いた小春日和の砂浜とは百八十度異なる、温度も色もない浜辺。砂の感触は軽くて空虚だ。この無数の砂の中には、砕けて粉々になった貝殻や生き物の骨が混じっている。

 昼にそれらを見つけたときは好奇心や興味深さのほうが強かったが、そう考えるとどこか心細い気持ちになるのも当然かもしれなかった。

 吹雪は顔を上げ、海を眺める人影へ呼びかける。

「藤原」

 制服のままの小さな背中がわずかに震えた。彼の緑色の髪は暗闇を帯びて艶かしく濡れている。鋭利な水晶のように危なっかしい横顔が、ゆっくりとこちらを振り返った。

「天上院か」

「……なにしてるの、こんなところで」

 吹雪は出来うる限りの柔らかい声で尋ねた。優介は口元から白い息を吐き出し、ぼんやりとした視線を再び海へ向ける。

「海が、呼んでいる気がして」

「……それ、今日言ってた話かい?」

 そうだよ、と優介は静かに息を吐く。

「こっちにおいでよって、こっち側に早く来いって、海が僕をそう呼ぶんだ。打ち寄せる波が、まるでそう言ってるふうに聞こえるんだ」

「……」

 さく、さく、と吹雪は砂浜を踏んで優介へと近寄る。彼の横顔は海を見つめている。ざざぁん、と寄せては返す波は、まるでどす黒く醜い汚水のようだ。

 吹雪が耳を澄ませても聞こえるのは波と風の音のみ。せいぜい今際のキワのようなあぶくが砂上に取り残されている、それだけでしかない。

 優介は顔を海へ向けたまま、おもむろに言葉を続ける。

「ねえ天上院」

「……なんだい?」

「僕には聞こえるけど僕以外には聞こえない声がある、って言っただろう」

「うん」

「ひとりになりたいとき、よく聞こえるんだ。ひとりじゃないよ、みんなこっちにいるんだよ、こっちへ来なよ、って」

 ──それはこの島の海から聞こえるんだ。

 ──島を取り囲む海の、あちこちから。

 悪魔を喚ぶ呪文でも唱えるような声色で、優介は漆黒の海から一瞬たりとも目を離さずそう言った。

 ざわざわと、吹雪の中へ得体の知れない影が伝播していく。暗褐色の長い髪が風に弄ばれた。

「……みんな、って誰?」

「分からない。けれど、僕は本当に、みんな向こう側にいるんじゃないかって……そう思って、ここに」

 波が強く寄せて飛沫を上げる。わっ、と水滴の冷たさに吹雪は思わず半歩下がった。隣に立つ優介も同じように飛沫を浴びているはずだが、彼は少しも動じずに直立している。

「海が、みんなが僕を呼んでいる。……その声を聞くと、行かなきゃ、って思うんだ。でも、きっと行っちゃだめだってことも分かってる。分かってるのに」

 気付くと海に来てしまってるんだ、と、優介はかすれた声でそう言った。

 吹雪はじっと彼の横顔を見つめる。

 紫の目は真っ黒の海と闇を映すばかりで、それがどうしようもなく気の毒で堪らなかった。そんなふうに、深淵と真正面から向き合うなんてしなくていいのに。きみの目は、本当はもっと明るく澄んだ色をしているのに。

 吹雪は体に巻き付けていたストールを取り去り、柔らかく優介の体を包み込む。

「藤原。帰ろう。ここは寒いよ」

 ストールの裾を彼に掴ませようと手を持った瞬間、それが驚くほど冷えていることに吹雪は気付いた。こちらの肌が焼かれてしまいそうなほどに冷たい。一体いつから海辺に居たのだろう。今一度優介の顔色をよくよく見ると、普段よりも一層青白く生気が消え失せている。彼は朧げな表情を返すのみで、いまここで捕まえておかなければ本当に向こう側へ行ってしまいそうだった。

 居てもたっても居られず、吹雪はストールごと優介を強く抱き込む。

「え、天上院、なに」

「ずっと外にいて寒いだろう。ボクも寒いんだ。いま出てきたばかりのボクが寒いなら、きみはもっと寒いはずだ」

 ぎゅう、と大仰に両腕へ力を込める。身長はそう変わらないはずなのに、優介の体躯は自分よりもうんと華奢であるように感じた。緑色の髪が溢れる肩口へ頬を埋める。毛先が心なしか湿っているのは、ちらついている雪のせいだろう。その内側には生きているものの温度がまだ存在していて、吹雪の胸に押し潰されるような痛みが疾る。

「藤原、きみ、気付いてないだろうけどすっごく冷たいよ。…………いまにも死んじゃいそうだ」

 吹雪には、優介が聞いているという海からの声を聞くことができない。

 それならばせめて自分の声をありったけ届かせることが第一だと、そう祈るしか他に手段がなかった。

「……悪かったよ、天上院。……ありがとう」

「……」

「うわ、ちょっと、強い、強いよ……! 力の入れすぎだよ天上院」

「もう、バカ! 急にいなくなって心配したんだからね! 藤原のバカ! もう勝手にいなくならないでよね! このハグはお仕置き!」

「ああ痛い痛い! でもハグじゃお仕置きにならないだろ。だって、」

「だって?」

 優介にゆっくり引き剥がされる。その顔には生気が戻っていて、ほんのりと赤みも差していた。これがどうか祈りの成果であればいいと信じたかった。刹那、澄んだ紫色の瞳が吹雪を捉え、即座に下を向く。

「……嬉しいから。……って言ったら気持ち悪いかな?」

 上目遣いでいじらしくそう訊かれ、吹雪の口角は無意識に持ち上がった。再び彼の肩をゆるく抱き直す。ストールにふんわりと皺が寄る。

「そんなことないさ。こんなことできみを嫌いになんかならないよ」

 帰ろう、と吹雪は囁き直し、未だ冷たいままの優介の手を取った。まるで氷柱を触っているようだ。少しでもこの無機物のような手を溶かせたら、と吹雪は彼の両手を自分の手で包み込む。

「藤原。ボクはずっときみのことが好きだよ」

 そうっと視線を持ち上げると、彼は顔の全面を赤く染めて驚いていた。くっきり濃い睫毛がぱちぱちと瞬いている。それがまるでひっくり返った子猫のようで、吹雪はつい吹き出してしまった。

「あはは、そんなに驚くことないだろう」

「……ずっと、って、本当にずっと?」

「? そうだよ。ずっとさ。永遠ってこと」

「……天上院、きみ、いま自分が何言ったのか自覚してないだろ」

「そう? そうかな。当たり前のことさ」

 吹雪は優介の肩を軽く叩き、いま来た道を帰っていく。昼間あんなにたくさん散らばっていたシーグラスはほとんど見当たらなくなっていて、きっと波が再び浚っていってしまったのだろう。明るいうちに拾えてよかったね、と隣を向くと、優介はもじもじとストールを手元に引き寄せているところだった。

 

***