門出 - 1/4

「羽風さんの、新たな門出を祝って!」

 ADは薫へ花の咲いた鉢植えを手渡した。鉢をぐるりと囲むリボンには〝羽風薫様へ 夜闇ラジオ制作スタッフ一同より〟と印字されている。

「ありがとうございます。ここでの収録は本当に楽しくて、俺にとってとてもいい経験になりました。それじゃあ、みなさん乾杯!」

 ピンク色のスイートピーが咲く、丸型でテラコッタの植木鉢。薫は笑顔でそれを受け取った。

 

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 自身のパフォーマンスのさらなる向上のためアメリカへ留学する、と薫が宣言してから、一ヶ月後。デビューから零と共に務めていたラジオのパーソナリティーはこの春で卒業することになった。新たなる分野へ挑戦する薫の前向きな姿勢に、スタッフたちは声援の気持ちを込めて卒業パーティーを開く。パーソナリティーは零一人になったが、ゲストを毎週呼んで対応する予定だ。

 若いADの女の子が、スタッフ代表としてスイートピーの鉢植えをプレゼントした。その女の子とはあくまで仕事上の付き合いではあったが、収録スタジオで三年間毎週顔を会わせていれば多少は情が沸く。職業にアイドルを選択した時点で女の子とむやみに関係を持つことはやめた薫だったが、全世界の女の子の好意を無視するほど無慈悲でもない。ただ一人の人間として、彼女にはよい印象を持っていた。

 気が利くし、仕事ぶりも真面目だし。収録現場でもよく笑う。六年前のあの彼女とは正反対のタイプであるにもかかわらず、言動の端々からどことなく近しい匂いを感じ取っていた。

 姿を重ねて見ているわけではない。が、まだ自分は彼女について整理しきれていないのかもしれない。

 薫は鉢植えの入った紙袋を手に提げ、マンションへと帰る。

 ラジオは卒業した。この先一年間は、物理的にもあのスタジオを訪れることはない。来年の今ごろには留学から帰って日本の芸能界に復帰するのだが、それでもやはりさみしく感じる。さみしく感じるなと言うほうが難しいだろう。

(朔間さんには事情を話してあるし……なんとかなる、かな)

 朔間零はフリートークでこそ独特でマイペースな雰囲気を出してはいるが、ああ見えて器用な人なのだ。ややこしい事情ではあるが話してもあの人なら、もし巻き込まれても自身で対処できる。零にはそれほどの力と機転がある。話してくれて嬉しいと、零は言った。

 問題は、事情を知るもう一人の人物である。

 “なんでも話せる友人”ほど危うい存在はない。なんでも話し、心のうちをすべて打ち明け、さらけ出せばさらけ出すほどに、境界線はあやふやになる。彼を自分の半身のように思い、大部分は溶けあい、同一の存在になったかのような錯覚を起こす。だが同じ部分が増大するほどに、自分と異なる部分もまた際立ってくる。

(なんとなくだけど、……たぶん、あんまりよくないと思うんだよなぁ……。お互いにとっても、さ)

 薫はその人物との関係について、いつからかそう思い始めていた。

 クラゲのキーホルダーがぶら下がった鍵を取りだし、鍵穴に差し込む。鍵は開いていた。同じ鍵を渡した彼が、今夜ここへ帰ってきているのだろう。そのことに薫は少し安堵した。

 時間が時間だからもう寝ているかもしれない、と音を立てないようにドアを開ける。案の定、自宅は真っ暗だった。

「奏汰くん、ただいま」

 

***  

 

 そのお願いにはなんの脈絡もなく、突然だった。

「奏汰くんさ、俺の家で一年間過ごしてくれない?」

 銀色の鍵を目の前に出される。キーホルダーやストラップの類が何もついていない、無骨な鍵だ。

「ええっと……『きゅう』ですね?」

「えーっとそれは色々あるんだけど、それはあとで話すから、取り急ぎ要件だけ。一年間、俺の代わりに家に住んでてほしい。どう、けっこういい案でしょ?」

「……かおるは、『いちねんかん』はかえってこないんですよね?」

「……うん、そうなるかな」

 その判然としない間の取り方に、奏汰はなんとなく事を察した。薫の目線が一瞬宙に浮く。薫がそう言うのならそうなのだろう。

「わかりました」

 鍵を受けとる。ほのかに温かいのは、薫に握られていたからだろう。

「……奏汰くんありがとね」

「いいえ。『おたがいさま』ですし」

 こういった無茶なお願いはこれが始めてではない。

 高校の頃からそうだ。学校を抜け出して電車を乗り継ぎ三つ先の県まで海を見に行ったり、その日の思い付きで山登りをして天体観測をしたり、薫とやってきたことはたいていいつも脈絡がなかった。突発的で衝動的。計画をきちんと立てて行動するよりも、自由に思い付いたままふらふらするほうが二人の性に合っていた。

 たぶんそれは、実家の厳格な空気から脱出するために見につけた処世術で、ベクトルは異なるが似た境遇がゆえの、道連れ相手を探していたのだ。
 今回もそうなのだろう。

「私物も好きなだけ置いていいよ。俺の家のものも自由に使ってくれて構わないし。ていうか今とそんなに変わらないよ。奏汰くんの帰る家がここになるだけ」

 薫はクローゼットを開き、洋服をいくつかピックアップしてダンボールに詰めていく。その中には、奏汰が一度も見たことない服もあった。ほぼ毎日、ではないけれど、かなり頻繁に顔を合わせているというのに、薫がこんなに服を持っていたことが気になった。新品の、使い古しではない綺麗なダンボール箱へ服が数着まとめられる。

 奏汰はその様子をぼんやりと眺め、ふと先ほど受け取った鍵に目をやる。半球型のくぼみが複数組み合わされたタイプの鍵だ。そう珍しくもない形だが、このくぼみがどう作用して鍵が掛かり鍵が開くのかが気になった。

「……じゃあ、『すいそう』をおきます。たくさん」

 鍵なんて所詮は鋳造された金属片に過ぎない。せっかく鍵を預かるというのに、これではいささか味気なさすぎる、と奏汰は思った。

(そうだ、『きーほるだー』をつけましょう。たしか、むかし『すいぞくかん』にいったときにかった、くらげさんのがあったはず)

「水槽? ……なんだか、高校のころを思い出すなぁ」

「なつかしいですか?」

「そうだね。あの部室、今はどうなってるのかな〜」

 颯馬が在学中は彼に管理を任せていたが、それもとうに昔の話だ。颯馬の卒業後は二年ほど続いたらしい。だが新入部員を獲得できず、活動を継続できなくなり廃部となった——と、風の噂で聞いた。

「いまはたぶん、ほかの『ぶかつ』になってるんじゃないですか?」

「そんなこと言わないでよ〜。奏汰くんはなつかしくないの?」

 薫はスプリングコートを畳む手を止めて尋ねる。

「もともと、ぼくが『きょか』なくたちあげたぶかつですし……『そつぎょう』するときに、あらかた『しょぶん』をきめましたから。『かくご』はできてたんだとおもいます」

「覚悟って、なんの?」

「おわってしまうことの『かくご』です」

「……そう」

 薫はコートを畳むのを再開させた。どさり、とダンボールへ放り込む。

「向こうから荷物とかさ、送るかもしれないから、それは受け取ってほしいのと、それと……ほかのとこに行ったりしないでね」

「わかりました」

 壁に掛かった帽子を取ろうと後ろを向いた薫へ向かって、奏汰は「おるすばんですね」と呟いた。

「留守番? ああ、そうかもね。奏汰くん、なにか向こうから送ってほしいものある?」

「うーん、『えはがき』がほしいです」

「わかった。じゃあ送るようにするから、返事書いてよね。期待して待ってるよ♪」

 薫はガムテープでダンボールを塞ぎ、その上に“ちょこん”と帽子を置く。

「『にもつ』、すくないですね」

「あんまり大荷物になってもね〜。それに別途でトランクも持って行くし、他に必要なものは向こうで買うつもりだよ」

「にしても、『あめりか』ですか〜。いいですね、にゅーよーく、わしんとん、かりふぉるにあ……♪ かおるが『あめりかないず』されちゃいますね……♪」

「あはは。どうする? 帰ってきたときに俺が星条旗まみれだったら」

「そのときは、ぼくもいっしょに『そう』なりますよ、『かおる』」

 

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